3.11の私

当日


中学卒業式の前日。
部活も早く終わり、家で一人で過ごしていた。


家族はみんな仕事。
習い事に行くには、少し時間が早い。
家でお昼寝をしていた。


地鳴りとともにハッと目が覚める。


宮城県は大きい地震が頻繁に来ていたから、いつも通りとりあえずこたつに潜ってみた。


なかなか止まらない地震にビクビクしながらも、頭の隅では大丈夫だろうと。


案の定、家のものは棚が少し崩れる程度。
一瞬気持ちを落ちつかせる。
テレビの電源を付けるも、すでに停電していた。


あ、どうしよう。
またこたつに潜ってしまう。
"津波"ということは全く考えていなかった。


"大丈夫かーい?お家にいるのー?学校かな。家にいるなら出ておいで。逃げるよ!"


近所のお婆さんが私を呼びに来てくれた。
不安が一気に消え去る。

制服にジャンパーを羽織り、携帯電話だけを持ち、飛び出した。



家の近くには運が良く高台があり、そこへ避難。幼なじみ家族と合流。

両親に電話を掛けるが全く繋がらず。
ネットもすでに繋がらなかった。


近所の人が持ってきた大きなラジオの情報だけが頼り。
津波が来るかもしれないという事実に震え立っていることしか出来なかった。


雪が降ってきて、寒い。
傘もない。暖まるものもない。


そんなこんなで何分経ったかわからないがあっという間に津波が到達。


近くに停めてあった車の中に、流れてきた瓦礫が引っかっている。
クラクションの音がずっと止まらない。


物凄い音。波の音。サイレンの音。
クラクションの音。叫び声。


生まれて初めて死を近くに感じた。


ハッキリは覚えていないけど、
高台の3分の2は水が来てたと思う。

水が引いたら近くのビジネスホテルに避難しようと、言っている間に第二波。


怖いという感情はあるものの
初めての光景に涙は出なかった。
ここら辺はもう覚えていない。



17時頃。甚だしい雪。
なんとか歩けるくらいには水が引いてくれた。

やっとのことでビジネスホテルに避難。

泥濘みと寒さで感じたことのない気持ちが込み上げてくる。


ホテルに着いたら近所のお年寄りの方達がたくさんいた。
みんな生きててよかったと思った。


19時頃。うっすら照らされるロウソクの光の中、ペットボトルのお茶と少しの食料を配られる。


とりあえずの食料と布団はある。
今日はここで過ごせると思い気が緩んだ。
とりあえず寝ようか。
余震はずっと続いる。
自分が揺れているような不思議な感覚に陥る。


23時頃
うとうとしていたところに爆発音が聞こえた。
外を見ると空は真っ赤。


近くのコンビナートが爆発し始めていた。
コンビナートからは既に原油が流れてきている。
広範囲で爆発する可能性が有るらしい。
今度こそ死を覚悟した。焼け死ぬのか。



しばらくすると自衛隊の人が戦車のような大きい車で迎えにきてくれた。
車に乗るまでの間は赤黒く光る空の下、
何もない道路を歩く。
戦争でも起こっているような気分だった。
まだ生きているんだ。

そのまま駐屯地へ避難。


簡素なジョイントマットが轢かれた広い会議室に案内される。
それぞれ乾パンとか毛布とか支給された。
母親と父親はどこにいるのだろうか。

午前1時を回る。
部屋の中は地鳴りとラジオの音。

誰かの悲鳴。
寒い。気持ち悪い。


寝たか寝てないかわからないようなフワフワした状態。次第に空が明るくなってきた。
あまり記憶はない。
多分何も考えられなかったのだろう。


気づけばいつも起きる時間。
乾パンをつまんでみたり、横になってみたり。
やる事はなにもない。

昼になった。母と再開。
生きていてよかった。


母は津波の水が残る中、私が居るであろう場所に目星をつけて迎えに来てくれた。


津波を目の当たりにして、車を乗り捨てて逃げたらしい。
"助けて"と言う声を一晩ききながら過ごしたという。

父は仕事で西日本にいたから大丈夫ということだった。


母は浸水した家を見てきたらしい。
「もう住めないね」
あまり綺麗でもなかった狭い平家。
別に好きでもなかった家。

日常ってこんな呆気なく終わるんだ。

お小遣いで買ったお気に入りの服とか、
初めて買ったCDとか、本とか。

幼稚園や小学校のアルバム。
小さい頃の写真が頭をよぎった。



その後叔父の迎えがあり、祖父母の安否確認をしに市民センターに行った。

掲示板には手書きの紙がたくさん貼られていて
「◯◯家無事です。△△に避難しています」
とかそんなの。


記憶がごちゃごちゃすぎて祖父母といつ再会したかな。この時だったかな。


その後、被害が少なかった親戚の家に居候させてもらう。2日後には暖かいご飯を食べることが出来た。すごく美味しく感じた。
親戚のご厚意で生活面ではあまり苦をしなかった。本当にありがたい。


余震も落ち着き始めた数日後。
車社会なのにガソリンが出回らなくて何時間も並んだこともあったな。今では信じられない。

家の片付け

何日かして家族で家を片付けに行った。
被害の程度は一番酷い"全壊"扱い。
だが建物自体は残っていたので、
家の中の物や瓦礫を片付ける事になった。


外壁に付いていた津波の痕は私の身長をはるかに越えていた。あのまま近所のお婆さんが助けに来てくれなかったら私は、死んでいた。

今は亡くなってしまったが
お婆さん助けてくれて本当にありがとうね。



家の中には見ず知らずの家の物や瓦礫、ゴミ。
美味しくなさそうな魚もいた。


コンビナートからの原油も流れていた。
殆どのものは泥と一緒に真っ黒。

わりと正気を保てていたと思う。
あとは覚えていない。

その後


その後は親戚の家に住んだり
祖父母の家の2階に住んだりと転々とする。


4月
新入生でもないのに新しい制服と教科書が配られる。変な気持ち。


当日行く予定だった習い事の先生は、帰り道に車ごと津波にのまれた。
次の日ヘリで救出されたらしい。

祖父



約1年後。
私は誰よりも尊敬し大好きだった祖父をなくした。
震災前に大きなガンが見つかり手術を控えていた。ちょうど地震がきた。
あの地震がなかったらもっと長生きしたんじゃないかとずっと恨んでいる。

最後に


私の住んでいた地域は、被害が本当に一部だけだった。
履くものがなく、ブカブカの長靴を履いていた私をからかう同級生がいた。
それくらい平和だった。

被災者面したいわけでも同情してもらいたいわけでもない。


私だけじゃなく
今読んでくれてるあなたも大変な思いをしたし。
もっともっと沢山のものを失ってしまった人や
今でもとても苦しんでいる人がいるし。

本当に私の一部の体験談でしかないけど
何か伝わればと思い綴りました。

目を通してくれてありがとう。
少しでもなにか。





おばあさん


2020年2月
助けてくれたお婆さんのお墓参りに行ってきました。
息子さんがNYに住んでいるので、そちらで。




なんとなく10年だし振り返ろうと文字に起こしてみたけど色々改めて思うことがあって書いて良かった。
2021.03.11



なんか自分で撮った写真出てきたので載せときます
2022.03.11


過去の私文章が拙いので書き直しました!
2023.03.11

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