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師匠の勉強会で学んだことと失ったこと Ep 1.4

それまでは学生同士、お世辞にも上手とは言えないものをお互いに練習し合っているのが学校での授業でしたが、広く卒業生を訪ねてみると様々な先生がいて少しずつやり方が違うことに気が付きます。

指圧の師匠の想い出

夏期大学で「名人」と呼ばれるH先生と出逢い、この先生のしている指圧はなんだか違うぞ、と思うようになります。

H先生の指圧がほかの人と違う、と感じたのは、ひと押しで受け手の身体に変化を出すことができる点でした。例えば、うつ伏せに寝ている相手のふくらはぎを”チョンチョン”と親指で押すことで、その場で前屈がすっとできてしまいます。
そして「これは技術だから誰にでもできる」と言うのです。

そうか、誰にでもできるのか。

その言葉を真に受けて、この人のようになりたい、とすっかり自分の中ではH先生を指圧の師匠に決めていました。

奇遇にも、私の実家から車で30分くらいの場所に治療院を構えていたこともあり、奇妙な親近感も手伝って、いずれは弟子にしてもらおうと思い込むには何の抵抗もありませんでした。
これで自分も凄腕の指圧師になれる!という希望は、自分の進んでいる道が間違っていないことを妄信させてくれます。

名人と呼ばれる人、飛び抜けた発明や発見をする人はどこか常軌を逸している。(わかりやすく言うと変人が多い…)
これは古今東西の普遍的な心理なのでしょうか。

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ご多分に漏れず、そのH先生も私のまわりにいる人たちからは「変人」扱いされていました。

もちろん、指圧の腕は超一流ですのでおおっぴらにそんなことは言いません。しかし、自分がH先生から学んでいると話をすると、それは止めたほうがいいと忠告してくれる人もいれば、なかには私と距離を置こうとする人もいました。

経験が少ないということは、時に進む道を誤らせてしまいます。

H先生からは多くのものを学ばせていただき、感謝している一方で、何か大切なものを自分の中に培うことのないままに、師事していた10年以上の時間を費やしたように思います。

練習会で学んだこと

H先生に師事している間は、都内で月1回行われる指圧の勉強会に参加していました。参加者は私を含めて20名ほど。
毎回、違ったテーマでどうやって指圧するか、ということを学びます。

「微に入り細を穿つ」という言葉が相応しく、練習会ではちょっとした違いでこんなにも楽に押せるようになるのか、という発見がありました。

しかし、その練習方法は古典的な「見て盗め」方式。
H先生が実技のデモンストレーションをして、それを真似するところから始まります。

ものごとを教わる立場からすれば、コスパよく多くのものを吸収したい。
それが本心です。
一方で、肝心なのはその再現性。

練習会ではできたのに、家へ帰ってやってみるとできていない。
その日はうまく押せたのに、2,3日経つと振り出しに戻っている。

これはどういうことなのか、悶々と考える日もありました。
今になって思えば、それは自分の意識と身体をうまく扱えていない、ということに尽きると思います。

およそどのスポーツも、同様の理由からコーチがいて選手のトレーニングをサポートしている。これは後に私自身が指圧を教える立場になって役に立つ考え方でした。

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何かを学び始めるとき、そこにはその人なりの癖が必ずあります。
日常生活での習慣だったり、特定の動きや仕事をしていると、どうしても偏った動きにならざるを得ません。また、そうでなければそのスポーツに特化したパフォーマンスができないもの真なり、です。

どうやって個人の癖を消して、その技術に適した動きを身につけるか。
そこを指摘してくれる先生は、ほぼいません。

社交ダンスをしていた経験から、私なりに【どうやって体を使うのか】をテーマに探求を続けていまに至ります。

「手技療法の楽しさを伝えたい」
これが私たちのキーメッセージです。
(中略)
力まかせにグイグイ押したり、痛いのをガマンして修行するのは時代遅れ。

解剖学と運動学に基づいた知識と体系化されたトレーニングを行うことで楽しみながら一生モノの技術を身につけませんか。
あい治療院 ホームページより引用

指圧の基本はH先生から学ばせていただき、その基礎は今となっても私の中心をなしています。


physical, mental, spiritual and social well-beingに生きるお手伝いをしています。2020.3に独立開業しました。家族を大切にし、一人ひとりが生き生きと人生を楽しめる社会が訪れるといいなと思いながら綴っています。