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自分の器以上のことはできないと痛感した教員時代 Ep 2.2

世の中が変わっても廃れないものを仕事にしよう、と決めてこの道を選んだものの、その実、私自身は専門学校に入るまでに鍼灸、マッサージを受けたことはありませんでした。
母親の姿を見ていたとはいえ、自分自身で体験したことに適う価値はありません。

専門学校の教員として働き始めた時に、同期となった先生はほかに二人いました。折しも、鍼灸マッサージ師の養成機関(専門学校)に関わる法律が改正されて、指導教員を増やすタイミングに重なったためです。
そのうち一人のY先生はスポーツ経験があり、部活で怪我をしたことをきっかけにこの道に進んだことを知ります。
高校生の頃から接骨院で治療を受け、みずからもスポーツ選手を対象に治療をしたいという意図が明確になっていました。

かたや私は、ぼんやりと「健康であること」を目指してこの道に入ったため、まだフワフワとして方向を絞り切れていないという現実がありました。
その過程で指圧の師匠と出逢い、「指圧こそすべて」と思い込んでいた節もあります。

臨床経験が足りない私を知る

いざ、自分自身が指圧実技を指導する立場になったときにも、この違いは如実に表れてきました。
「指圧」というひとつの手技療法に限っても、概念や理論、考え方などをよく言えば大局的に捉えて指導してきた私に対して、Y先生は少ないながらも患者に施術した経験を通じて、こういうケースはこのように施術するといった具体的な事例を授業で伝えていました。

学生はどちらを好むでしょうか。
ほとんどの学生から、Y先生の授業はためになるという声を聞きました。確かに目の前に現れた患者はある特定の症状を抱えています。
痛い、痺れる、重たいなど、さまざまな表現で主訴を訴えますが、治癒に導くためにはその現象を具体的に知っていることで初めて対処することができます。

『自分の器以上のことはできない』

これは手技療法を実践していくうえで、ひとつの真理です。
そして、縁あって目の前にいるひとりのクライアントは、そのタイミングでやって来るべくして現れた訪問者と理解できます。

患者さん一人一人と丁寧に接することで、受け取る側は辛かった症状が楽になるという結果を体験し、施す側はひとつの症例を通じて自らの器を大きくしていきます。
そこには「自分が治療した」というパターナリズムは微塵もなく、おたがいにギフトを手にするという行為が成り立っています。

「患者さんが先生だよ」とよく言われますが、臨床経験こそが施術者を育てるのでしょう。
この視点に立った時、指導する者は何を伝えることができるでしょうか。
それは、ゴルフのスイングを修正することに似た施術のフォーム修正であったり、これまでに見聞きした症例を共有することだったり、施術した患者さんから得た経験だったりします。

「先生、お母さんが肩こりで手が痺れるんですけど、どうやって指圧したらいいですか?」

当時の私には、この問いに十分に答えられるだけの知識も経験もなく、自らの足元が覚束ないことを痛感していました。

深く基礎を掘る

一介の教員として、私は何を伝えられるだろう。
その視点に立ち返って当時していたことといえば、基礎的な指圧の型(フォーム)を伝えることに集約されます。
師匠からも「高い寺院を立てるには、深い基礎が必要」と教えられていたため、それを信じて疑わなかった自分もいます。

指圧に限らず、道具を使わない手技療法は施術者自身のあり方が効果を左右します。例えば、親指の置き方ひとつ。
手首の角度、肩や肘の位置。安定した足腰と滑らかな重心移動など。
それらの基礎を指導することは、どこかゴルフのレッスンに似たところもあります。
師匠から学んだノウハウをそのまま学生に伝えていましたが、それは今でも私の礎となって現在の技術を支えています。


physical, mental, spiritual and social well-beingに生きるお手伝いをしています。2020.3に独立開業しました。家族を大切にし、一人ひとりが生き生きと人生を楽しめる社会が訪れるといいなと思いながら綴っています。