ハンバーグを親の仇のように嫌っている人もいる

定時に帰って何が悪い。食べ物を残して何が悪い。信号無視して何が悪い。人から盗んで何が悪い。人を殺して何が悪い。


この人間社会は偉い人が作った正義に浸食されている。
それを反する者は悪として淘汰される。


悪なんて存在しない。
みんな自分を正義だと思って行動している。
正義がただ乱立しているだけだ。
皆自分の都合で自分とは違う正義を悪と判定してしまう。
傷ついた、と感じた時、だれかを標的として悪に仕立て上げないと気が済まない。
人間はそういう生き物なのかもしれない。


悪は存在しないが、悪意は存在する。
だから悪が存在しているように見えてしまう。
これは非常に厄介だ。
なにも悪意を持って行動したわけではないのに、悪意というものが存在してしまっているばっかりに自分とは違う正義に直面すると傷つけられたと判定してしまう。
判定することは別に悪いことじゃないが、
悪意(悪意と判定してしまったもの)に心を揺さぶられている時間ほど無駄な時間はない。


とは言っても、悪意がちらついた時、
「これはこの人にとっては正義なんだから受け入れなきゃ」と考えるのも面倒だ。
面倒だし、他人の正義に自分の正義が浸食されかねない。

他人の正義は他人の正義だ。
あれこれ考えても仕方ない。
受け入れられないものもある。
よく言えば、それが個性ってものでもある。
ハンバーグを親の仇のように嫌っている人もいるし、電車の車内で地べたに座る人もいる。
私には理解ができないが、彼らにとってはそれは正義だ。
干渉するつもりも、矯正するつもりも、干渉されるつもりも、矯正されるつもりも、無い。


私は悪意を感じた時、理解できない正義を感じた時、彼らを猫だと思うようにしている。
猫には悪意や正義があるかもしれないが、
人間はそれに怒りや悲しみを覚えない。
それどころか、愛おしさまで感じるかもしれない。


猫をかわいいと思えるのは、支配できているという潜在意識があるのかも、
と書きながら思ったがまたそれは別の話。

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