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課題図書も悪くないけど

読書熱が再燃している。


個人年表を振り返ってみると、読書するようになったのは小学校低学年の頃だった。

この時初めて能動的に本と向き合い、おもしろいものと認識し、読書を遊びの延長線上に位置づけるようになった。

その最初の本は講談社出版の少年少女世界文学館「シャーロック・ホームズの冒険」であった。

少年少女向けに刊行されただけあり、物語とは別に複数の単語に青や赤色の文字や挿絵の説明書きが記載され、幼年時には膨大な情報量に映った。虫眼鏡がパイプを加えた表紙は今でも記憶の中に刻み込まれている。

特に最初の短編である「赤毛組合」には心が沸き立つのを感じた。赤毛と銀行強盗を結びつけるアイディアに面白さを感じ取ったのだろう。


第二次読書ブームは大学時代に到来した。

中学・高校では部活に集中し、日々疲弊した身体をもってしては読書に時間を割くのは甚だ難しく、一旦距離を置かざるを得ない時期であった。(それでも学校側から出された「こころ」「しゃべれどもしゃべれども」「黒い雨」「高瀬船」「あすなろ白書」等といった課題図書を読む程度の気力は十分にあり、課題に苦しむ友人がいる一方で、大変有意義な楽しい宿題時間を過ごすことができた)

実家から大学までの通学が往復3時間半~4時間と恐ろしい時間であった為、不毛な時間を有効活用したいと思いついたのが読書であった。

通学にこれほどの時間を要し、大学の雰囲気が馴染まなかったこともあり、もし別の大学に行っていたらばと想像することもあるが、結局は読書にどっぷり浸れたという1点だけで大学選びには十分満足している。

それから社会人となり現在に至るまで読書は身近な存在であり続けていたが、ここ2~3年は読書にマンネリを感じ、読書頻度も減っていた。

それはジャンルへの固執読む=読了であると勘違いしていたことが原因であった。

口に合い、充分な栄養が取れる料理があるとわかっている。店長も気さくで、居心地が良い。そんな快適空間にあまりにも長居しすぎていたようである。時間もお金も無駄にしたくない所謂ドケチ精神が目標への最短距離を求めすぎていたようだ。

昔は読んだ本を部屋の隅に積み上げて己に酔う部分も多少あった気がする。

また読むことは文字を追いかけるのではなく、言葉に向き合い自身の一部に取り込むこと、さらにはその変化を外界の壁に投げつけるようなものであると認識を変えることができた。

これは僕自身にとってとても重要な変化であり、気づきであった。

他者ありきではなく、むしろそんなノイズはテリトリーから完全に除外し、ひたすら自己の変化に耳を澄ませて観察する。日々浮かんでは消える微かな取るに足らない個人の思考を、その場に繋ぎ止め吐き出すことが最も必要な作業だと今は考えている。

しかし自己への集中は現状、かなり困難な作業であると感じており、気を抜いたら最後、そこかしこに溢れる無限の情報ばかりでなく内なる思考自体にも頭を持っていかれることが多々あり、その度に元の道筋に呼び戻すことに苦労している。

少なくとも3日に1回程度は言葉を用いて今を繋ぎとめていられるよう、そのスキルを磨きたい。その為に読書や日記、食事、スケジュール管理、新たなチャレンジ、勉強等すべきことは山ほどある。

時間がおしいです。

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