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【小説家志望が】ブリジャートン家の性的同意描写について考える、あのシーンはどうレイプなのか【コロナニート】

画像:Netflix『ブリジャートン家』より

吾輩はコロナニートである。コロナニートとはコロナの影響を、波を、受けに受けまくってニートとなったニートである。

この度、晴れてコロナニートとなった吾輩は、絶賛Netflix作品をオーバードーズしている。そこで『ブリジャートン家』も一気にキメた。

Netflix にて放映中の『ブリジャートン家』は、4週間で各国から8200万世帯で視聴され、Netflix史上最高記録の視聴回数となったりと注目度の高い作品である。

多様性を表現するための、人種を超えたキャスティング、カラフルで華やかな衣装の数々、めくるめく変化するパーティー会場など、全てをハイクオリティで魅せてくれる豊かな作品だ。

ダフネ(女の子)かわいいね。まじクソ可愛いよね!!サイモン(男の子)写真だけでもカッコええわぁ。

(個人的に、パーティ中に弦楽で奏でられる、ここ数年のPOP ミュージックが、マジでキラキラ感を演出しにいってて攻めてるし、派手だけど挑戦しててクールじゃんと思ったりしてました。イギリスの摂政時代にアリアナ・グランデとかマルーン5とかビリーアイリッシュが流れてるってのは、他では見れないよね)

まぁ、こんな私でも小説を書くなんて趣味を持っている。そこで、一部で話題になっている『ブリジャートン家』の中の性的同意についての描写が、なぜ批判をされているのか、そして、あのシーンはどうあるべきであったのか。それを小説を書く人間か視点から考えてみたいと思った。

↓ ↓ ↓ 以下よりネタバレを含みます↓ ↓ ↓

6話での、セックス描写が問題のシーンだ。批判時はレイプと表現された。

何がどうレイプなのだろうか、整理しながら説明していく。

物語性を削除して、批判されているポイントを端的に言えば、

「サイモンが避妊を望んでいたにも関わらず、ダフネが彼の意思を無視してサックスを続け、結果として膣内射精にいたった」

これは「ステルシング」と呼ばれるレイプ行為だ。

当初は、男性がセックス時に女性に同意なくコンドームを外す行為を指してこう呼んだ。妊娠をしたくないのに、勝手に膣内に射精されたら、そりゃレイプでしょ、というやつだ。

性差別の観点から、男女が逆転しても相手に同意がとれていない形の、望まない形の性暴力はとがめるべきものである。

この場合、男性であるサイモンは明らかに妊娠を望んでいないのだ。作品中の時代設定はコンドームがまだない。そのためサイモンは性行為のたびに最後は外に出していた。

にも関わらず、6話のシーンでは、女性であるダフネが上から抑えつける形で性器を抜かせずに射精をさせた。

サイモンは幼少期のトラウマがあり、自分の子どもが生まれることを忌諱している。まぁ、トラウマがあろうとなかろうと「ステルシング」は性的暴力に十分にあたる。望まない妊娠をよぶセックスは暴力だ。

また、男性が女性に対して行う性暴力については悪であると、だいぶ認識が広がってきているが(とはいえまだまだだが)男女の立場が逆転した場合に問題を軽く受け止めない人が多く出てしまうでしょ、という点でもより批判は激化した。

つまり、女性が男性に対して行うレイプはその辛さを被害者以外が理解しようとしない傾向にあるという話だ。

また、今回は男性であるサイモンが黒人キャストであり、女性であるダフネが白人キャストである。黒人差別の歴史において黒人を繁殖のための道具として見てきた、労働力を増やすための道具として扱ってきた事実があるのも、ポリティカルコレクトネス的に視聴者を不快にする原因でもあった。

芸術の観点があるから的なスタンスでこのシーンを擁護するつもりは著者にはない。

また、批判時に「こうあるべきだった」が提示できなければ、批判をしてはいけないと言いたいわけでもない。

間違っていると思えば、その時、視聴者は批判の声を上げていい。その権利が視聴者にはあるし、作者にはそれを受け止める責任がある。

ちなみに、インティマシー・コーディネーター(ドラマを作成する上で性描写などの配慮をしたり、役者にストレスのないように調整をするポジションの方)はこの批判について「このシーンは性的同意について考えるきっかけと考えている」とコメントしている。

まぁ、このコメントがあろうとも、批判の存在と製作側の意図を知らずに見た視聴者の中に「女性が男性に性的に強く行動することは、相手が嫌がっていてもいいんだ!」と思われることはよろしくない。ので、批判が広がった。物語自体がフィールグッドなハッピーエンド的な演出で終わるので、その経緯を美化してしまったらそりゃ不快ですわなという話だ。

さてさて、長くなったが以上が、6話における性暴力シーンの問題点だ。私の意見というより起きている事象の整理が以上である。下記からは、じゃあ、どういう表現が良かったんだろうね、、、という話に入っていきたい。

ここまで意図的に取り除いてきた物語性を加味して考えていこう。

サイモンは公爵家の後継であり(物語の中心は子爵家であり、公爵家は位が高いので、子爵家から公爵家に嫁ぐ事は玉の輿となる)、子孫を残すことは彼の責務である、、、。一般的には、、、。

だだ、物語を紐解いていくとサイモンには幼少期に吃音があり、それを彼の父親は一族の恥とした。サイモンしか子供のいない父である当時のヘイスティングス公爵は唯一の跡取りに障害があることを周りから隠し、それ以上に精神的に虐待とも言える扱いをした。

実際それが原因となり、サイモンは「家族」そのものに対し嫌悪感を持っている。罵詈雑言に加え「喋れないなら口を開かせてやる」とヘアブラシで殴られそうになる描写もある。

公爵家であることを、あり続けることを何よりも優先した父に復讐をするために、自分は結婚をしないし、子どもを産まないと誓いをたてたのが今作におけるサイモンの精神状態だ。そりゃそうなる。そんな父親、憎んで当たり前。

対して、子爵家出身の主人公ダフネは、喧嘩もあるし、それぞれ悩みもあるけれど、何というか健常な家庭で育った令嬢である。

両親は当時には珍しく恋愛結婚であったようで、子どもの目から見ても憧れるような夫婦関係だった。

それ故に、ダフネは結婚に夢を持っている。理想の相手が見つかる事を夢見ているし、結婚したのならば子どもを持つのが当たり前だと思っている。母になる事は幸せな事だと信じている。

ここまでは、ダフネに現代でも女性がもつ願望が投影されている(私的にコメントするならば、、、。子育てがしずらい日本の政治が、養育環境が貧しくヤバいのであって。産みたい人が産める社会を目指したいし、結婚や出産が「神話」とされ過ぎて、やや嘲笑の的になる今の視聴者が多く持つ感覚の方が嫌だなぁと個人的には思っている。神話じゃなくて、実際に幸せがあってもいいじゃないの)。

さて、2人の生い立ち以上に事態をややこしくさせた原因は、時代柄、性教育が行き届いておらず、ダフネがサイモンと性関係を持つ時点で、ダフネは妊娠の仕組みが理解できていないという点だ。

サイモンとセックスをするまで、セックスとは何かを知らなかった。

なので、最初ダフネはなぜサイモンが外に出すのか把握しておらず、避妊手段ではなくセックスとはそういうものだと思ってしまう。

また、サイモンから「子どもができない」と説明を婚前にうけたダフネは彼が体質的に問題があり不妊状態なのであると解釈する。

そして物語後半で、性行為中に性器を外に出す意味を知り、それは子どもを自分との間に作りたくない意思表示だと受け止めて、嘘をつかれたと怒りを持って、暴力的で強制的な性行為に出てサイモンの精神衛生を侵害するに至るのである。

ここまでで、2人のステータスを整理した。

結果のところ、「お互いが、理解していないところを徹底的に潰すまで話し合ってれば、そうはならなかったんだよ」的な流れなのだろう。

だし、カテゴライズとしての「レイプ」とか「ステルシング」だとか「男女の立場が逆転したとしても性的暴力である」というよりも、各々の事情や心情、それこそ製作側のいう性的同意を大切にしないといけない。というのが作品自体の視聴者へのメッセージな気がする。

男だから、女だから、LGBTQだから、とか関係なく個人個人の嫌がることを無理強いしてはいけない。それを視聴者に伝えたいから6話の描写になったのだ。

物語だからフィールグッドなハッピーエンドだけれど、もっと関係性に決定的な打撃になったり、サイモンに精神的な傷をつける事になったかもしれない。取り返しがつかない事になったかもしれない。

さて、ではどう表現すれば、そのメッセージが誤解なく視聴者に届くのか。ドラマを見てレイプに疑問を持たず、批判的な意見を目にせず、製作側のコメントも調べない視聴者にメッセージが正しく届くのか。

いろんな批判を見ていて、シーンをもっとショッキングでないものに差し替えるべき、という意見を散見した。

ただ私はそうだろうか、と思った。

ショッキングでないシーンしか視聴者に見せないことは、視聴者の想像力を伸ばさない事になるのではないか。実生活で性的暴力を目の当たりにしたり、親から学ばなかったり、隠されて育った人が、暴力を見て「ひどい」と思うことが学びのきっかけになるのではないのか。

むしろ、隠されてしまえば、ダフネのように、ボタンの掛け違いのように、相手を傷つける行為を視聴者が実生活でしてしまうのではないのか。

Too much ではいけないが、ある程度の残虐性や性暴力性などのテーマをしっかりと画面に写した上で「これは、人の人生を壊す許されない行為だ」と伝える方がより良い方法なのではないかと思ってしまう。

現実的ではないが、理想としては、一緒に誰かと作品を鑑賞して「このシーンは酷いな」と然るべき批判をすること。もし、今回のようなシーンにレイプ性を見出せない視聴者に、それはレイプだと気が付かせる誰かが横で教えてあげるというのがいいけど、、、。まぁ、無理な話だし、一々横で観てるものにコメントされるのは嫌だよね。

そうでないのなら、シーンを差し替えるより「今回のエピソードには、女性が男性にステルシングするシーンがあり性暴力的な描写があります」等促すテロップを入れるか。作中で「あれは性暴力だった」と、はっきり表現するか。

とにかく、問題のシーンをマイルドにして、暴力を隠すのではない、「ひどいことをするのはひどい」と正しく伝える描写や方法の方が私には必要に思えた。

『ブリジャートン家』には特に年齢制限もついていないようだし、それこそG-15的な制限をもうけるのも対応も方法としてはアリだ。

どうなんだろうね、難しいね。でもこういう問題を考え続けられる作家になりたいと思う今日この頃である。

別の記事で書けたら書きたいですが、黒人キャストについて、どうなの?と思ってるそこのあなた、、、製作側には意図があるようなので少し調べてみてくださいな。

ともあれ、自分がモノを作る時、批判を前提にしたものづくりというか。批判までセットに作ったりする試みとかがなんかできないかな?とかっててな事を、今回の事で私は思ったのでした。

以上

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