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写真を撮るのがもったいない

写真を撮っていると、写真を撮るのがもったいないと思うことがある。被写体の魅力がカメラで捉えきれないほどだから他の方法で残したい、けどカメラ以外に方法が分からないという。だがその葛藤の瀬戸際でシャッターを撮ると、何故か身震いするほど素敵な写真が撮れていることがある。
私はいつも日常を撮る時「忘れるから残さなきゃ」という気持ちだけで撮影している。何かを写真として残すことは、それが過去になることだ。いつか被写体がこの世から消えたまま、写真だけが残る世界線を認めることになる。一方で、写真として残された歴史の破片に自分自身や見る人が救われることも分かった。最近色んな種類の撮影をする機会が多くなるにつれ、だんだんと混乱してもういいやという一時的な感情も湧くが、私は何やかんや撮影をやめられないでいる。それは私の子供の頃の経験がそうさせているのだと思う。
小学生の時、原爆博物館でみた写真が今でも忘れられない。展示された写真のエピソードは当時の記憶だけで書くが、原爆投下で建物が跡形もなくなり、服を着ることができない複数人が裸で固まって座ったり水の入ったバケツを眺めたり、うろたえているところにカメラマンが遭遇した。そのカメラマンは、それを写真に残していいかどうか物凄く葛藤した。あまりにも残酷で涙を堪えきれず、その場で固まって30分くらい悩んだ挙句泣きながらシャッターを切った、というものだった。小学生だった私は家族のケータイで写真を撮ったりサンタに貰ったデジカメや家族のビデオカメラでホームビデオを撮るのが好きだったが、たかが1枚の写真を撮るのにこんな感情になるというのが衝撃的だったのだろう。
今の私は、心身の疲れでもう何も生み出したくないと思う時、同時に、何故かこのエピソードを勝手に思い出しては、私はまた次々と撮影の予定を入れている。

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