見出し画像

なぜあの可愛い芋虫は死なねばならなぬのか。


農業を始めて数ヶ月、間借りでコツコツ
ピーマンや、エンドウマメ、ナス、トマトなどを育てている。
畝から作ってコツコツ育てる。
真夏でも毎日水やりに行く。交通量が少ない深夜に行く。
雨が降った日は今日は行かなくていいや。と思う。
でもその心は正しいのか?とも少し疑念がある。
真の植物愛者ならば水捌けをチェックしに行ったり、水のやりすぎに
なっていないかをチェックしに行くべきだろう。

という心の葛藤が始まる。

それはさておき、この前、野菜を入れ替える時に畝を作っていた
すると土の中から芋虫が出てきた。以前職員さんから、根を食べる害虫が畝の中にいた場合は取り除いてくださいと言われていた。

見つけてとりあえずバケツに入れた。
体をくねくねさせて何とか起き上がろうとしていた。
芋虫はおそらくもがいていたのだと思う。これは人間側の言葉を彼らに投影させているだけなので全き虚構であるけれどそう”見えた”

畝作りが終わった時に、ではこの芋虫をどうするか考えた。
ゴミ箱に捨てるか自分で踏み潰すか、その辺に放置するかの三択が浮かんだ。

取り除いてください。という職員さんの言葉に立ち戻るとそれは殺してください。
という言葉のメタファーであるのは間違いない。

ゴミ箱に入れれば勝手に死ぬ。その辺に放置すると他の人のスペースで根を食べるかもしれない。

人間中心の考え方だと、畑で野菜を取るという目的は、その畑の全員が共有していることである。よってそれは公共の善である。
公共善の前では個人の権利は放棄しなければならない。そんなふうにまず考えると、哲学者ホッブズ(1588〜1679)の社会契約の考え方と近い。
すなわち直接的であれ間接的であれ殺さないという権利は私にはない。

一番楽なのは、公共の外、すなわち適当な畑に外に害をもたらさない部分に出し、
達者でな。と心で思いながら土の中でしか生きられない故に確実に死ぬその芋虫の死を見ないようにすることである。

しかしこの逃げこそが最も野蛮であることも知っている。
自分は死んだところは見ていません。道路に置いただけです。
というこの欺瞞性。恐ろしい責任転嫁。

一度芋虫を掴んでみた。
少し生暖かい。そして必死に逃げようとしている。
その”生”への意思が皮膚から伝わり心にも伝わり、鳥肌が立つ。

文脈や言語、理性を突き通してその生への意思は確実に伝わってくる。

この”生への意思”が消滅した時、私はこれを殺したことになる。
まず選択肢として殺すことは決めたが、その殺し方を考えた。

楽なのはスコップで潰すことだ。
スコップで潰せば、これを握り潰す感覚もない。
いちにのさんで押せば勝手に死んでいる。殺した感覚はないのに死んでいる。
しかしこれも、その生を奪うことから距離を置こうとする人間の欺瞞性、逃げである。

そう考えると答えは二つ。食べるか握り潰すか。になる。
その生の意思を自らの生との直接的なつながりの中で奪う。

決して逃げてはならない。
そうしてその日、私はこの手で3匹の芋虫を握り潰した。
心がとても重かった。

ゴミ箱にポイすればどれだけ楽だっただろう。

次の日から少し異変が生じた。
畑に行く時に妙に心が引き締まっている感じがする。

他の生命を奪ってでも自らの食料を作るというこの
営みの野蛮性をはっきりと自覚している。

彼が死んだのは食料を取るという目的によってである。
となると、手で芋虫を握り潰すという行為を正当化する唯一の理由は食料をしっかりと育てて取るという行為によってのみである。

ちゃんと育ててちゃんと食べよう。
いろんなことが少しわかった。この世界との責任性が食育なのだと。

個人の哲学と体感としての食育が心の中で繋がった。

また一つ自らの行為の野蛮性に気づけてよかった。
ありがとう芋虫。あたなたちのおかげで欺瞞への気づきが増えた。

秋以降にはキャベツ、ニンジンたくさん取ろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?