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世界の原理

世界が焼け野原になり、ビルも家も何も無くなって
社会や法律なんかも無くなった時に

何が残るのだろうか。

そう言うことを少し考えてみたい。
もう20年以上考えていることだけど。

自然法思想をベースに考える思想家は
それはキリスト教だと考えたし、ピュシスだと考えた。
でも人によって様々。

まぁそんなことはどうでも良い。
キリスト教自体は普遍でもないし、古代ギリシャのピュシスは難しすぎる。

でもこの世に流れる秩序、本当の”流れ”を知らないと
うまく生きられない。

息の吸い方を知らない人は、その世界では生きられないのと同様に。

困った。それを知るのは難しい。当然目には見えないし
それは今日の社会の善悪の判断とは全く別次元の本質的なものだ。

善悪の判断はある基準を要する。宗教や法律など
でもそれは所詮相対的なもので、時代や文化に依存する。

だから適当なものだ。

それを絶対だと信じる人間をとりあえず一般人と呼んでおくとして
その奥にある”流れ”を知っている人間を少数派とここでは呼ぼう。

さて、その”流れ”本当の自然法、いや法と言う言葉は誰かが作っているみたいで変だな。

世界の本性のルール。

そう言いたいが難しくなってしまうな。

間を取って”世界の原理”としようか。

本当はアルケーと言ってしまえばいいんだけど
専門用語で普通の人は馴染みがないし、専門家からすると古代ギリシャのコンテキストに引っ張りがちだから、世界の原理としよう。

さて、この世界の原理をいかにして知りうるか。
という部分が重要になるのだけど

困ったことにこれには明確な方法はない。

何かに書いてあるわけでもないし
誰かが教えてくれるものでもない。

ではまず、消去法でいこう。
まずは善悪の判断を捨てること。
人殺しは悪だ、とか、盗みは悪だ。とか
人助けは善だ、とか、愛を伝えるのは善だ。とか

そういうA=〜
みたいな数学的な頭は一回捨てておこう。

現象そのものを見つめることから始める必要がある。

だって、A=〜と考えた時には
すでに既存の善悪の判断や、社会的な通年をベースに考えているからね。

さて、まずはこの善悪の判断を一回保留、いや捨てるところから始めると
次に、私たちの人生の諸原理を考察するところにうつる。

結局この世界の原理は自分で考えるしかないから
自分の経験を元に考える必要がある。

でもやっぱり、考えて、身に沁みてることじゃないといけない。
なんだろうそれは。

勘違いしちゃいけないのは
自分が作ったルールじゃなくて
自分がすでに動かされているルールだという点で

それは人類史がはじまって、いやその前からはじまっていて
今後もずっとそうである原理じゃないといけない。

私も今考えていて、俗に言う良いことも悪いことも
人を傷つけることも、愛すことも、愛されることもやってきて
なんとなく分かったことだけど今の私がそれを体系化するのは難しい。

簡単なところで言えば、何かを獲れば何かを失う。とか
良い面があれば悪い面がある、とか、いいとこ取りはできない。とか
加速すればその分、終わるのはやくなる、とか
筋を通してないと自分に返ってくる。とか。
簡単に言えば、世界の二律背反性だね。

体系化はできてないけど
でもはっきりと感じるのは、おそらくそれは
今日的な価値観のもっと奥にあることと、多くの人がそれに気づかずに生きているということ。

別に気付く必要はないけど、確かなことは、社会に自分の居場所がないと感じる人
世の中の善悪の判断が欺瞞に見えている人は、社会のルールではない場所に自分の基準を見いださなければならないということ。

そしてその基準は”確か”なものでないといけないということ。

結局のところその辺りの感覚と身体に染み付いたものが鋭く深い人間は
会った瞬間に分かる。そういう感性は必ず何かの規範をその人の人生という場で作り上げたものだ。

だから揺らがないし、わかる人にしか分からない。

世界の原理ってのは、今日の世界を捨てた人間に初めて見えてくるような事が多い。

だから、奥にあるんだな。

この記事を読む人がそれに気付く必要、もしくは
気づきたいと思っている人間。

さらに言えばそれがなければ生きていけない人
へ何かしらの気づきや確認になれば幸いである。

今日はこのへんで。

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