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呼吸するように書いて、綴るようにごはん食べたい。

今日も夫は登山へ行った。

山へ行って、帰ってきてお風呂に入って中高生へ数学を教える。
このサイクルがいいらしい。


見送りながら、ふと自分がこの家の管理人のような寮母のような、そんな気分になり少し安心できた。ここにいてもいいんだ、と思えた。

・・・


やはり仕事に行かず家にいるという状態は、後ろめたさを感じているように思う。けれども家で一人の時間に手帳やエッセイを書く。わたしは、このサイクルがいい。


働きに出ていたときも、文章は書いていた。というか、そうじゃないとエッセイは書けないもんだと思い込んでいた。エッセイ本の著者プロフィールをみると、エッセイだけ書いている人は少ない。みんなそれなりの肩書をもっているようにみえた。       


・・だからエッセイは片手間に書くもんだと、そういう認識でいた。


本業の方でこころをたくさん動いたことを、エッセイとして書くんだろうと思っていた。それが、いいんだろうと。「片手間」の意識だった。ずっと。



たしかに、働きに出ていた頃もこころがたくさん動いていた。
それはミキサーかけるような動き方をした。


さぁ書こうと、PCの前にいる頃にはへろへろ。
こころに目を向けると、もはや何が入っているのかわからない味のジュースみたいだった。こころが不味かった。


心理の仕事をしながら、そのネタでエッセイを書く。やな話、その方が売れると思った。話題になりそうだった。誰かに、見つけてもらえそうだった。


浅はかだ。


今朝の話の続きに戻ろう。


『ドミトリーともきんす』という高野文子さんの本をご存知だろうか。


不思議な学生寮「ともきんす」。科学の勉強をする学生さん(のちの有名科学者たち)と寮母とも子さん、娘のきん子のやりとりを通して、自然科学のこと、科学者たちのことばが漫画形式で描かれている。


今朝夫を見送るとき、寮母のような気分だったと書いた。その理由がここにある。

寮母のとも子は寮にいるのだ。立ち代わり学生さんが2階から降りてきて、とも子と話をしてストーリー展開していく。その展開が自然なのだ。


わたしは家にいる。



立ち代わり誰かはやってこないけど、夫や家族、友人、ラジオやSNSが面白い話を聞かせてくれる。もしかして自分から力入れて得ようとしなくても、毎日書けるくらいのネタってあるんじゃないか。


居さえすれば・・(これは家に限った意味ではなく、どこにいても)無限に何かは書ける気がしている。



じゃあ、ある程度ネタを外(他者や自分がいつもやっていること)に委ねてみようと思った。ネタをとりにいかなくても、届けてくれるならその分体力を別のところに使えるんじゃないか。


続けたいことは、どこかに無理があるとつづかない。そのためには「このぐらいできる(あるいは過去できていた)」と思っていることを、手放さなきゃならないときがある。あると思った体力は、いつの間にか減っていることもあるから。


『踊るように寝て、眠るように食べる』じゃないけど、
『呼吸するように書いて、綴るようにごはん食べたい』。


誰にでも起こることを、ふつうに書いていたいと思う。


おしまい。


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