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コミュニケーションとは分かち合うこと説

こんばんは。
ここ2日、山田ズーニーさんのことばのシャワーを浴び続けています。

彼女の本をいくつか読んでいると、
相手に自分のことを伝えることってなんて尊い行為なんだと感激します。

と言いつつ、わたしはコミュニケ―ションが苦手な人間だと思っています。
できれば、自分の殻に閉じこもっていたい、傷つきたくない、ことばが伝わらないのはもどかしい、そもそもわたしは何を伝えたいのかわからない。
だから、仕事を辞めてから、しばらく家に閉じこもっていました。

閉じこもっている間に「これからは自分の好きなことで生きてくゾ!」と思って、家事もそっちのけで自分の好きなことだけをしていたけれど、なんだかどんどん空しくなってきたのよね。

しかも、好きなことをしてるって自分では思ってたんだけど、そこには余分なものがへばりついてた。
SNS上でたくさんの人から「いいね」をもらうため、すごいねって思われたいがための行動だったってこと。

山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」のなかで、こんなことばがあります。

自分が好きなことが必ずどこかにあって、自分がそれにふさわしい才能を持ってるっていうふうに思い込んでしまった段階から、なにかこう、「他者」とのつながりを断ち切ってしまうようなところもあると思うの。
おとなの小論文教室。|山田ズーニー|河出書房新社

今日、このことばに触れたとき、何だか吹っ切れた気がしてね。
なんていうかな、わたしは地球に生まれて生きてるのよね。
決してひとりでは生きていけないようになってるから、他者と関わり合いながら生きていくしかない。つまり、コミュニケーションからは逃げられないんだ、って。

「才能は自分の中になく、社会の中にある」
「才能は自分の中になく、他者の中にある」
いったん、こう極論してしまったらどうか?
すごく、極端だけど、何が見えてくるだろうか?
おとなの小論文教室。|山田ズーニー|河出書房新社

もう、コミュニケーションから逃げるのは、諦めよう。

そんな風に思いました。

communicationの語源はラテン語で「分かち合う」を意味するcommunisだそうです。
分かち合うなら、まぁるいケーキを切り分けてひとりひとりにお渡しするようで、できそうです。

才能がここにはなく、他者の中にあるのなら…
わたしは出会わなくてはなりません。


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