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昨日、1.17。

きのうは、あの阪神淡路大震災が発生してから27年目。

毎年、追悼行事が行われる神戸市中央区の東遊園地で、今年も追悼の集いが開かれ、地震発生時刻の午前5持46分に合わせ、集まった人々が静かに手を合わせ、魏税になったすべての人々へ鎮魂の祈りを捧げた。


5000本もの竹と紙で造られた灯籠を並べて描かれた「忘」の一字。


「忘」れないの意義を込めて並べられたが、「忘」れてしまう、「忘」れたいという人の思い、この震災が世間から「忘れられてしまう」という危機感・・・様々なものが込められているという。その追悼の樣子を、私は例年のようにTVのディスプレイから目を逸らさずに見つめていた。


と、同時に27年前、あの震災当時の凄惨な光景をTVで初めて見た記憶が、脳裏からまるでフラッシュバックのように、蘇ってきた。


あれは昨日と同じように寒風が吹き荒れ、手がかじかむほどに空気が冷えていた、めちゃくちゃ寒い日のことだった。ヤフーの災害カレンダーをググると、当日は火曜日だったとのこと。



その日の夕方のTVで、神戸がとんでもない事態になっていることを知った。

濃い灰色の煙と紅蓮の炎を吹き上げ、街が燃えている!・・・にわかには信じ難い光景に唖然あぜんとなる以外なかった。


全焼した神戸市長田区の映像が映し出されると、まるで第二次世界大戦後の焼け跡を彷彿とさせる、凄惨な光景が広がっていた。


「これが1995年今現在の神戸の光景なのか・・・」


その後、日を追うに連れ、避難所の生活の様子や、被災者が焚き火を囲んで暖かくしている光景などがTVニュースで伝えられた。人々の顔に深い疲労の色が浮かんでいたのが見えたのを、つい昨日のように思い出す。


避難所の映像には、黄色い寝袋の中で横たわる若い女性らしい人に寄り添う、年配の男女も映し出されていた。寝袋の人はすでに亡くなっていて、寄り添う男女はその両親だった。自分は、それを見ると、いたたまれない思いに駆られた。


「子供を先に亡くして、この両親はこれから先、如何していくのだろうか。というより、生きていけるのだろうか・・・」。


ぎ倒された高速道路の高架、その上で間一髪停止しているバス(ちなみにバスの運転手さんは無事だったとのこと)、まるで戦場での光景のように、滅茶苦茶に潰されたビルや民家、丸焼けになった商店街…。


これがあの賑やかで人が何時も一杯で活気にあふれていたあの神戸なのか・・・


1年後の同じ日、TVを点けると神戸の被災地での追悼行事の映像が。今回と同じく竹や紙で出来た灯籠で作った「1.17」の文字。すべてが変わってしまったあの日を忘れまい、という被災地の人々の思いがあの灯籠文字に結集していた。あれから27星霜・・・。


この間、神戸市は震災で焼け野原になったのがまるで嘘のような復興を遂げた。新しい高層建築が建ち、商店街の賑わいも戻り、例年沢山の観光客や買い物客、住人たちが行き交う賑やかないつもの神戸に戻ったかのようだ。


然し、眼を賑わいの裏へ向けると、孤独死や震災障害者の問題、更には震災を知らない世代に「1.17」の凄惨な体験をどうやって伝えてゆけばいいのか試行錯誤と苦悩、そして27年経っても震災で負った心の深傷ふかでを抱えたまま、あるいは亡くなり、またあるいは必死に生き、同じ苦しみを抱えて生きている人に寄り添い続ける人たちの存在…(これは東日本大震災でも同じだが)日進月歩的な「表向きの復興」に隠された「心の復興」の遅れが見え隠れしているように思う。


自分は、この追悼の光景を毎年TVで見つめ続けているが…被災された人々が抱え続ける犠牲になった家族、親類、友人らへの無念や悲哀、この震災が時とともに風化し忘れ去られてしまうことへの強い危機感、更には(東日本大震災でも同じだが)時と共に進む被災者の高齢化と未来世代へ震災の事実を伝えるために乗り越えなければならない大小様々の課題…これらは27年が経って、被災地に益々大きくのしかかる問題になっていると、思いを深くした。

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一日遅れですが…被災地で犠牲になられたすべての方々への追悼を捧げつつ、心の復興が少しでも前へ進み、高齢者も若者も、障害者もそうでない人も、個々の人々が生きやすい、元気で明るくオープンで、それでもって安心安全な、そんな神戸の街になってほしいと、願わずにはいられない。


それに今年は東日本大震災から11年目にもあたる。10年を過ぎて、色々なひずみが見えてきた東日本大震災の被災地。心の復興が神戸以上にまだまだ途上にある事を思うと、自分にできることは一体何だろう、とずっと考えざるを得ない、寒波の強い今日このごろだ。

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