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その一片に、なれたなら

今日は、とても「当たり前」のことを、書こうと思う。誰が聞いたって、そりゃそうだろうね、となると思う。だけど、どうしても、書きたくなってしまったから、書いてみる。

「たのしい」の裏には、多くの人がいる、ということだ。物との対話を、学術的なものからアートまで、色んな人が色んな形で、試みようとしているのも、納得がいく。今、私たちの目に見えるもの、手に届くものは、全て、誰かの手によって、作られているからだ。

昨日、野外フェスのお手伝いをしてから、どうも、色んな物の背景というか、その裏にいる多くの人に、目が行くようになった。

ふと見た、医療器具、車椅子、音楽番組の映像。誰かがそこにいて、色んなことが巻き起こる中でも働き続けているから、成り立っているもの、ばかりなのだ。

格差の話、低賃金の話、過労の話・・・。大学に入って、3年間、色んなニュースを見て、色んな人と出会って、「働く」に対して影の部分を考えることも、多かった。

でも、今日、書きたいのは、少し、違う。誰かが働いたからこそ、生まれたものは、ちゃんと、ここに、ある。誰かの役に立っている、ということだ。

昨年の夏に、北九州で、200人規模のキャリアを考えるイベントを開催した。そのイベントの協賛をしていただいた、ひとつの中小企業。北九州を走る電車やモノレールに使う、部品のひとつを作り続けているという。18年くらい北九州に居たけど、こんな会社があるなんて、全く知らなかった。

そこで働く人は、本当に、素敵な方々だった。緊張しながら挨拶に行ったのに、着いた瞬間から、まるで親戚が来たように、家族一同で、出迎えてくれた。

「私たちの仕事がないと、あのモノレールも、JRも、走れんのよ。意外と、すごいやろ〜!」って。

他にも、自分たちの仕事や従業員の話を、笑顔いっぱいでしてくれた彼らに、私は、なんとも言えない、感動を覚えた。そこには、愛があった。何気なく使う物の背景には、誰かの思いがある。そして、語り継がれないとしても、小さなやさしい話が、いっぱい、いっぱい、あるのだ。

昨日の祭りで、私が担当したのは、ゴミ分別のブース。会場は、陽気な音楽や小さな子の声、平和な音が響く。参加者は、地域の美味しいごはんや、魅力的な音楽ステージに、胸を躍らす。そんな中、小さなゴミブースのことなど、きっと、誰も気にしていなかった、と思う。

それでも、分別に協力して、綺麗にご飯を食べたお皿を返してくれる一人ひとりに、「ありがとうございました!」と声を、かける。届いてるか、分からない。だけど、ずっと、言い続ける。

そうすると、「ありがとうございました」とか「ご馳走様でした」と、言ってくれる人が、いる。近くでブースをやってる人が、「お疲れ様〜!」と、声をかけてくれることも、あった。

不思議な時間だった。ただ、「ありがとう」と言い続けるだけなのに、誰かの「楽しい」の一片になれているのなら、それで、いいと思えた。

もちろん、「お腹空いた」とか、「休憩したい」とかは、あったけど。でも、今、振り返ってみると、その時、どんな気持ちだったかは、もう忘れてしまった。

「楽しい」だけの生活なんてないけど、ふと思い出して、「良かったな」と思えたのなら、それは、今を生きていたな、と思う。

祭りの後、静かになってからも、多くの人が、ゴミを片付け、機材を片付け、テントを畳んでいる。ああ、ただ、「楽しい」と思える時間があることは、なんて、幸せなことなんだろうか。

「楽しい」「心地よい」は、一人じゃ、生まれないな~。と、大自然に包まれた私は、ちっぽけながらに、そう、思った。

これからも、楽しい時は、思いっきり楽しむ。自分の幸せにまで、遠慮する必要は、ない。幸せな時は、それでいい。

幸せなことがある度に、「私は、こんなんでいいのか」と思っていた時があった。「分かりやすい」不幸に、「分かりやすくていいな」とさえ、思っていた時があった。

でも、もう、大丈夫。幸せでいることが、それを支える人への「ありがとう」にも、なると思えたから。

でも、そこに誰かがいることを気づいた時は、「ありがとうございました」と、声に出して、伝えるようにしたい。いつか、また思い出せるように、ここに書いておこう。

働く、全ての人へ。
今日も、ありがとうございました。

いつも、応援、ありがとうございます!サポートいただいたお金は、6月から約8ヶ月間のアメリカの留学費に全額使い、その体験を、言葉にして、より多くの人に、お返しできたらな、と思っています。