ジブリ後継者問題から宮崎吾朗を考える【岡田斗司夫の興味深い話】
宮崎駿はジブリにとって祝福であり、呪いである
細田(守)さんは
ジブリでなくていいじゃん
つまり
ジブリ何が難しいかっていうと
昔、押井守が
ジブリに入らないかって話を
宮崎駿から
勧誘を受けたことがあって
次に庵野秀明も宮崎さんに
お前もうジブリに来ないか
という風に言われた事があったんだって
で、その時にやっぱり
二人とも凄く考える訳だ
っていうのは
スタジオのクオリティとしては
明らかに全盛期の
ウォルトディズニースタジオを超える
超クオリティスタジオな訳だよな
そこで作ったら
フリーの演出家した人間だったら
誰でも分かってんだけどさ
映画の演出とかアニメの演出っていうのは
素でできる、裸でできるもんじゃないんだよ
そうじゃなくて
自分の手持ちのスタッフを
どれぐらい良い環境で集められて
新人スタッフを
どれぐらい教育できるのかで
映画の労力
映画に使うエネルギーの半分ぐらい
そこに使っちゃうんだよね
でもジブリって
もうそれが全部揃ってる
いわゆるワンパッケージになってる状態だから
初っ端から自分が持ってるイメージ
っていうのを作れるぐらいの所
ではあるんだけども
でもジブリはジブリで
こう言ったら何だけども
やっぱジブリらしさというのに
囚われるんだよな
つまりこういう作品を作るのが
ジブリらしいのかとか
もしくは宮崎駿はこの路線行ったから
敢えてこの逆やんなきゃいけない
みたいな物があって
そこでなんか
素の状態にはならないので
使いにくいっていう話は聞いたことがある
ジブリにとって
宮崎駿っていうのは財産なんだよな
祝福であり呪いであるって
俺はよく言うんだけども
何かそういう風なことが凄くあるってのは
ラッキーなことなんだけど
同時に
凄いキツいこと
でもあるんだよな
だって何を作っても
自分達で宮崎駿以外で何を作っても
あの百年に一度の天才と
比べられちゃうんだよ
そんなのさ
やってらんないじゃん
だから(宮崎)吾朗君
何やっても
親父が宮崎駿って
大ハンデキャップ
背負ってるわけだよ
なんかね
それ考えるとしんどいなと思う
借りぐらしのアリエッティで宮崎吾朗が描こうとしたもの
借りぐらしのアリエッティ
ってあったじゃん
あれ見た時に俺すごい面白くて
ああこれはジブリの人達が
脱宮崎駿というのをやろうとしてるな
借りぐらしのアリエッティって
シナリオを宮崎駿が書いたんだっけ?
確かそういう風な作品だった
と思うんだけども
アリエッティの中に出てくる
家政婦の婆さん
っていうのがいるんだ
これが凄い不思議なキャラで
映画の中では
役割としては悪役なんだよ
アリエッティ達の家を暴こうとして
小人達を捕まえようとしてる
明らかに悪役なんだけども
スタッフの描き方そうじゃないんだよ
すごい無邪気で
悪意はない悪戯っ子みたいな
婆さんなんだけども
凄い迷惑な人っていう描き方なんだ
そう!ここのコメントで出てる
その通り
顔を見たら
宮崎駿そっくりなんだよな
宮崎駿そっくりで
その婆さんが
やってることは何かって言うと
アリエッティのお母さんを
捕まえようとするんだ
アリエッティのお母さんっていうのが
凄いカマトトっぽいっていうのかな
なんか凄い女の子らしい
もうオバさんさんなんだけど
女の子らしいので
イヤイヤとか
こうクネクネクネクネ
するような女だ
それを一生懸命捕まえる
これ明らかにメタファーだよな
つまり宮崎駿が追い求めている
アニメの中に再現しようとしてる少女性
っていうのは
あんたの年代の世界観であって
既にそれは現代では通用しない
カマトトぶった少女性なんじゃないの?
みたいな
もう暗喩が入ってんだ
それをシナリオで書いた時は
宮崎駿は
画でそういう風に考えてなくて
自分の中の自然な流れで描くんだけども
画を書く人間は
明らかにそれをメタファーとして乗っけて
でも宮崎駿を憎んでないから
そこをトリックスター的に描いちゃう
なんか愛すべき変なキャラ
として描いちゃうから
ストーリー上は
悪役であるべきなのに
悪戯っぽくて悪意がないように
なっちゃうんだ
俺がね
それを気が付いたのは
アリエッティのお母さん捕まえて
瓶に入れる時に
サランラップみたいなのを
上からキュッて被せて
ペタっと乗せるんだよ
それはいわば
幻想の少女
小さい少女みたいなものを
セロファンの中に
包み込んでしまおうっていう
アニメのセルの中に
少女を閉じ込めてしまおうっていう
宮崎駿が
アニメーションを作る時の中に持っている
根源的なエロティシズムと
創作の持つダイナミックさの根源を
もう映画見てる人に
分かんなくてもいいよ
でも俺たちが
今作んなきゃいけないのはこれなんだ
宮崎駿を愛してるんだけども
敢えて彼には悪役になってもらって
そこから脱出する女の子の話描かないと
俺たちには将来がないんだ
それがジブリがいる場所
そのものじゃねえか
っていうメッセージ性が
バーンて出てて
格好良い!ロックンロールだ!
でも映画としては中途半端〜
って思ってたんだけど
本音言っちゃった(コメント)
企画倒れ(コメント)
そこら辺が、でもね
ラストシーンね
ジブリらしくなくて面白かった
最後に病弱な少年がいて
病弱な少年が
アリエッティを助けることで
さあどうなるかって
あれ死んでるよね、明らかに
病弱な少年が只でさえ
心臓手術が成功するか失敗するか
失敗の確率が高いって言ってるところに
アリエッティ助けるのに
夜露に濡れながら
徹夜で探し回ってるわけだよ
なんで死んでるのかって
俺が言えるのかっていうと
みんな
映画を作る人間の立場で
考えてみて
映画を作る人間だったら絶対に
彼が生き残ってるんだったら
手術を生き残ってるんだったら
ちゃんと病院の中で
生き残ってるシーンっていうの
入れるはずなんだよ
でもそれを入れない
っていう事は
それは視聴者の想像に任せます
私たちは分かってますけどね
っていうメッセージなんだ
ネタバレ(コメント)
あーわりぃわりぃ
あのね俺の番組ネタバレあるけど
今のうちから謝っておく
そういう調整はできないんだよ
すまない
でもアリエッティの面白さって
そういうストーリーじゃないよ
そういう風なものでありながら
またアリエッティがさ
その病弱の少年に言われるのが
君達は滅びゆく種族なんだね
どういう事かと言うと
アリエッティの本編の中で
何度も出てくるんだけど
最後の一人(アリエッティ)だ
だからもう子供が残せないっていう
やけに生々しい事が出てくるんだよ
子供が残せないという所に
もう一人
未来少年コナンのジムシーみたいな
なんか元気で野蛮な少年が現れて
他にも(小人が)いるっていうので
その少年と二人で
川を下るところで終わるんだ
川を下るときにアリエッティ
髪の毛を下ろしているんだ
髪の毛を下ろすっていうのは
映画上の暗喩で
女になる
っていう意味なんだよな
それを川を流れる
つまり
それまでの自分の人生とか
罪っていうのが洗い流されて
流れるとか
あと子宮の比喩とか女性の比喩とか
色んな物に乗っかりながら
そんなのアニメ作る人間
絶対考えるんだよ
髪の毛を下ろす
隣にいるのは肉体派で
さっきの病弱な知性派の少年の所から離れて
肉体派で
これから子供を作るために
二人で旅立つっていう
メタファーがこうやって来て
ジブリ作品としてはこっちの方向へ
俺たちは持っていかなきゃいけないんだな
っていうメッセージと
そのアリエッティの生き方
ストーリーとが
上手いことこう重なってる
でもその重ねることに
一生懸命になって
ストーリーとしては
何かちょっと
×%△になっちゃったっていう
アニメのテーマは観客のためのものではない
この辺もね
アニメ見るのの面白さだよね
テーマとかストーリーっていうのは俺
自分の本でも書いたんだけどさ
アニメのテーマっていうのは
見てる人のためじゃないんだ
スタッフが一致団結するため
でもあるし
自分たちが絶対これを言いたい
っていうのは
観客に届けたいためでもあるんだけど
言いたいだけっていう時もあるんだよな
だからこのコメントと同じ
自己満足か(コメント)
自己満足かって言われたら
そうなのかも分かんないんだけども
それがないとねやっぱり
一年なり一年半なり
大の男、大の女が30過ぎて
自分の人生を削りながら
睡眠時間を削りながら
本当言えば
手を抜いた方が楽な生活ができる
って分かりながら
子供向けのアニメとかバカにされながら
一本の作品作りきれないよ
それは自己満足じゃなくて
表現って言ってあげようよ
その方がなんか多分近いと思う
その表現
自分たちの言いたい表現と
そして見てる人に伝えたい表現
っていうものを被せて
同時に出すっていうのが
大人の技なんだよね
だからそこら辺が
なんか上手くできてる時の
例えば
富野(由悠季)作品とかいうのは
ものすごい面白いんだ
高畑(勲)作品が
面白いようでいて
何かちょっと物足りないのは
何かっていうと
自分たちの言いたいことっていうのが
ストーリーの中に
完全に組み込まれてしまって
そして子供達のメッセージも
綺麗に組み込まれてしまって
完成度がやたら高いから
逆に言えばなんか
フレームが見えてしまう建築物
みたいなもんだね
アリエッティみたいに
多少作りが緩やかな方が
その骨格、骨組みが薄ら見えて
俺には凄い面白かったな
次世代の人にとって、借りぐらしのジブリ
アリエッティってさ
脱ジブリの話なんだよな
借りぐらしのアリエッティの
小人たちが閉じ込められてる世界
っていうのは
スタジオジブリみたいなもので
そこで自分たちが何をやっても
それは借りぐらしでしかないと
何を作ってもそれは
宮崎駿の威を借りてるだけだ
その通りなんだよ
この間
日テレの特番で見たんだけど
コクリコ坂の特番見たんだけども
コクリコ坂の初号試写
いわゆるスタッフ試写が終わって
終わったら
スタッフ試写が終わった瞬間に
宮崎駿が前に出て挨拶して
この映画はまあ欠点も色々あるけれども
頑張ったと思います
みたいなこと言うんだよ
何考えてんだ!
宮崎駿って
脚本やった一スタッフにしか過ぎないんだよ
このコクリコ坂では
でも堂々とまず一番最初に出てきて
息子の映画は
欠点は色々あるけどよく頑張ったと思います
って言って
次に鈴木敏夫プロデューサーが出てきて
この鈴木敏夫プロデューサーもさ
プロデューサーっていったら
絶対に監督の味方なんだよ
絶対何があってもそうあるべきなんだ
でも宮崎駿の隣に座ってんだよ
宮崎駿の隣に座って
宮崎さんが挨拶に行くときに送り出して
次に自分が出てきて挨拶して
吾朗君も挨拶しなよ
って言って
宮崎吾朗に挨拶させるんだよ
この辺見てたらもう
借りぐらしだよな
と思ったんだ
ジブリの人達っていうのは
その借り暮らしの中でアニメ作ってる
っていう風なコンプレックスが凄い出てて
映画の中でさ
病弱な少年が
君たちは滅びゆく民族なんだね
っていう風に言うんだけど
もう俺もそこら辺はもう
ビンビンビンビン感じてて
俺たちは滅びゆく
二次元アニメーターなんだと
どうせピクサーの3Dとかが出てきたら
俺達は消えていくんだみたいな
何か凄いリアルに感じて
それに対して
頼りになるはずの息子だよね
あの宮崎吾朗君は
何か病弱な心臓麻痺で
いかにも死にそうな少年みたいな
いい感じの後継で
凄く僕達に好意的なんだけど
でも彼は頼りがない
っていう風な感じで描かれていて
何てアリエッティって凄えんだ
でもアリエッティの唯一の欠点は
映画が面白くないことなんだ
アリエッティが映画として面白くない理由
これ何でかって言うと
映画ってさ
三つの層でできてると思うんだ俺
一つ目の層は
何かこう見栄えっていうのかな
スペクタクルの面白さ
見た目の面白さがあって
二つ目は
ドラマの面白さがあって
三つ目は
テーマの面白さがある
つまり
見た目、ドラマ、テーマの面白さがあって
アリエッティはね
見た目は
そこそこ派手
ファンタジーの世界だから
ドラマは
割とちゃんとできてる
でもテーマ
さっき言った
俺たちはジブリからもう
出ていかなきゃいけないんだ
本当はそういう風に出ていって
外の世界で力強く作品を作らなきゃいけない
でないと俺たちは
二次元アニメーターってのは
生き残れないんだ
というストーリーをやりながら
ぬくぬくと
ジブリの中で
それを作ってやがるところが
テーマと
何か全体の嘘感を
出してるんだよな
これは何かここまで自分で言った
勇気は認めるけれども
仕送りを受けながら政治運動してる
みたいなね
嘘臭さを感じてしまったんだよな
監督よりも大事なプロデューサーの不在
で、俺それで
コクリコ坂なんだけども
本当のジブリの問題点っていうのは
プロデューサーの不足
じゃないかなと思うんだ
よく監督の不在が言われてるけど
不在ってことじゃないんだ
宮崎駿、高畑勲以外の監督がいない
これも嘘だよね
宮崎駿以外の
稼げる監督がいないんだよ
高畑勲は稼げる監督に
結局一回もなってないんだよな
宮崎駿以外に稼げる監督がいない
っていう風によく言われて
だから監督の後継問題があって
ずっと言われてるんだけども
あれ俺
嘘だと思って
鈴木敏夫の跡を継ぐ
プロデューサーがいないことの方が
遥かにでかい問題だと思う
監督っていうのはいざとなれば
外から連れてこれるんだけどさ
プロデューサーっていうのは
その会社の生え抜き
でないとできないと思うんだ
この間
日テレのコクリコ坂の特番見たら
茶髪のもう
言っちゃなんだけども
こいつどうかな?
みたいな奴が
プロデューサー見習い
って肩書で出てきて
吾朗さんは頼りないように
見えるんですけど
あれでも苦労人なんですよ
っていう風なことを
共感したような口ぶりで
ペラペラペラペラ喋ってて
こいつ大丈夫か?
と思ったんだ
随分前にさ
夢見たことがあってさ
いやもう寝てる時に見た夢なんだけどさ
俺ぐーぐー寝てたんだよ
そしたら
岡田さん岡田さんって声が
聞こえたような気がして
ジブリのプロデューサーなんですけども
鈴木敏夫さんには娘がいて
その娘の彼氏が
次のジブリのプロデューサーになるそうです
つまり
宮崎家の世襲監督と同時に
鈴木家の世襲プロデューサー体制も
完成ですみたいなこと言われて
そんなバカな!
とかいう風な事を言って
目が覚めたんだけどさ
でも現に鈴木敏夫みたいな
怪物的な力量を持つ
ある意味
宮崎駿の天才性と同じく
鈴木敏夫の天才性を持つ
プロデューサーっていうのが現われられない
特にそれは宮崎駿の支配より
遥かに強い支配で
鈴木敏夫は
ジブリを占めてるからさ
ジブリの影番だよな
あんなの影番とは言わないけどな
毎回毎回
記者会見に出てくる影の番長がいるもんか
っていうぐらいの影番だからさ
どうかなと思う
だから
プロデューサーがいないことの方が
つまり
鈴木敏夫の作り方しか知らないし
鈴木敏夫がもし病気で
コロっといなくなったりしたら
あの人みたいに
強烈にメディアに対して
強く当たれる人がいなくなっちゃう訳だ
なので大丈夫かな?
と思うんだ
テーマ性だけだったゲド戦記
で、コクリコ坂な
コクリコ坂面白かった
なんでかって言うと
まず見せ場、ドラマ、テーマ
で言おうか
見せ場はだめだ
正直、画の見せ方が下手
だから
お芝居も何か段取りっぽいけども
ただまあ内容があっさり味だから
あれぐらいでもいいんだって
言えばいいんだよね
だから宮崎駿みたいに
見てておもしれー
っていうシーンはまあ一個もないんだわ
言っちゃなんだけども
まあ一個もない
これを見るために映画館に来たー
映像の面白さっていうのはこれだー
みたいなものは一個もないんだけども
じんわり来る良さはいくらでも
それは主に
ドラマの作り方で
その意味では
吾朗君は本当に進歩したよね
あのゲド戦記のダメダメ感
に比べたら凄い上手くなった
で、テーマ
このテーマが
ゲド戦記との最大の差
ゲド戦記の方がテーマ性はあったんだよ
作家性っていうのかな
この場合のテーマ性っていうのは
作家、監督個人の
生きるテーマっていうのを
いかに映画の上に乗っけるか
という意味な
ゲド戦記っていうのは
宮崎吾朗は
この見せ場の作り方がダメ
ドラマの作り方もダメなんだけども
テーマに関しては
かなり自覚していた
だから
なんか台詞で全部言っちゃう
っていう風な欠点も
色々指摘されたんだけれども
それでも自分の思い
何で自分が映画作るのか
父親に関してどう思ってるのか
っていうのを
バンバンバンバン
台詞で言うっていう
度胸だけはあったんだ
いわゆる
観客の前で裸になって自分の魂を見せる
って勇気だけはあったんだ
その結果
ゲド戦記大失敗しちゃったじゃん
何も語らないコクリコ坂
で、吾朗監督が
何を選んだのかって言ったらさ
次はあんまり語らないという方法を
選んじゃったんだよな
だからコクリコ坂って
皆、異常に良い人で
あんまり言われないんだけど
めっちゃハッピーエンドで終わるんだよ
最初から
で、どこにこのお話問題があったんですか?
こんなに皆良い人で
ハッピーエンドでいいんですか?
みたいな終わり方なんだよな
ただ一つ出てる
明らかに異常な特徴が
監督の主張がない
全く
宮崎吾朗っていうのは
自分の気配を消しつつ
監督することに成功したんだ
だから見せ場とドラマ以外に
本来彼が強く持ってるはずの
テーマ性だよな
映画作家とは何か
っていうのを凄い隠してて
それでも滲み出てきちゃう
コクリコ坂のメインテーマっていうのは
父親って何だろうとか
自分の本当の父親って何だろうって話で
それは最後の方で
徳間書店会長そっくりの爺さんが出てきて
本当に(作品中に)
徳丸書店っていう所があって
そいつが何もかも解決してしまう
良い人みたいに出てきて
なんか俺は
本当の親父には会ったこともないし
恵まれたこともないんだけど
徳間の社長が良い事してくれたから
有難うございます
みたいな映画になってて
本当にこれ
これでいいのか?
吾朗これでいいのか?
とか思っちゃった
そこら辺のなんか
お家ドラマとして面白かったな
でも吾朗君の
もっと下品なやつだったり
もっと作家性が強くて、足掻くやつだったら
そこを正面に出してたら
コクリコ坂って
見るに堪えない作品になったと思うんだ
今言った
吾朗君の作家性とか
テーマの叫びっていうのは
もっと強く出すことができたし
これまでの鈴木敏夫の監督演出論とか
鈴木敏夫の
監督とはこうあるべきだ
例えば
千と千尋を作った時に
宮崎駿が
カオナシっていうキャラクターを
出した時に
よし!これで映画になったと
ようやっとこれで
普通の話じゃなくて
宮崎駿が自分のテーマ性を出したっていう
という意味では
宮崎吾朗は最後まで
鈴木敏夫に尻尾を掴ませないまま
サラリーマン監督として
プログラムピクチャーっていう
何かミスタージブリみたいな作品
作っちゃったんだよね
だから結果的に
ハウス食品の一時間半アニメ
みたいな物ができたんだけど
結構これが見れちゃうところが
ジブリの底力であり
これが新世代の監督かな
と思うんだ
宮崎吾朗に見る現代の作家性
で、これ
世代戦争って言ったら
俺達はみんな宮崎吾朗だ
っていうのはさ
僕らの状況と似てるよな
と思っちゃったんだ
僕らって言ったら失礼だけど
僕とこれ見てる皆とでは
世代もうんと違う訳じゃない?
面白いことってさ
もう既に
上の奴らに散々やられた様な気がしない?
僕自身あんまり
そんな気はしないんだけども
なんかね
若い人と話してて
そういう風なことを
言われることが多いんだよ
なんか楽しいこととか
面白いことっていうのは
あんた達に散々掻き回された後で
俺達には
何か遊び場みたいなものしか残ってないと
ものをつくるダイナミズムとか
何か一つの時代を作る
みたいなことって
散々色んな人にやられたり
もしくは
ネット上で
頭の良い奴がやって
自分達ができるのは
その上で楽しく遊ぶぐらいの事しかない
みたいな事を
何か言われてるんだよな、よく
今の日本人みんな
そうなんじゃないかな
みんなね、頭の上にね
宮崎駿がいるんだよ
何やってもパクリになっちゃうんだよな
だから何かものを作る
っていうのは
何かと何かを組み合わせたものとか
何かを上手くパクったものとか
そういう風なものにしかならない
なんかそういう悩みがある
だから
宮崎吾朗のあくまで作家性を出さない
っていうのは
お前らに本当にやりたいことはないのかって
熱く上の世代に聞かれた時に
いや別にうん
そうじゃなくてなんか
皆が良いものをやれればいいです
って答えちゃう
僕らの世代の映画監督なのではないのかな
凄い現代的な作家性っていうのを
逆に持っているからこそ
あの生き様っていうのが
あるんじゃないのかなと思って
これまで二世映画監督とか
もしくは能力は低いけども
いい奴の映画監督
と思ってた宮崎吾朗君が
今の時代のヒーローっぽく
俺は見えてきて
面白いなと思ってきたよ
この文字起こしについて、
個人的に興味深いと感じた岡田斗司夫さんの動画を切り抜いて
文章化しております。
気に入って頂けたら、応援よろしくお願いします!
ショート動画でまとめてみた↓
動画で見たい方はこちら↓
岡田斗司夫のYouTubeチャンネル→https://www.youtube.com/@toshiookada0701
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