ぼくらが恋に落ちる理由:サカナ編
わたしのしあわせは、おいしい魚が食べられることです。
那珂湊といえば「市場寿し」だったのですが、最近は海門橋を渡ったところにある「こけらや」に行くことが多くなりました。簡素で、落ち着いて、全方向から光が入っているような明るい店内。注文が入ると立ち上がり、黙々と魚を捌き始めるご主人。おいしいお刺身だけでなく、お店に漂う静かな雰囲気が好きです。
疲れている時、ふと思います。
「ああ、こけらやに行きたい」
「そばにいたい」は恋の基本的な感情です。
「恋する凡人」の歌詞を聴いたとき、「そうそうそうそう」と、心の中で30回くらい頷きました。恋に落ちてしまう相手は匂いでわかるのです。
職場に近い「ひらご寿司」を最初に訪れた時、戸を開けた時の匂いで「好きになってしまう」と思いました。
食べ物屋さんが自分に合うかどうか、何回か行ってから判断することが多いのですが、本当は最初に感じた匂いでわかっているのかもしれません。
いずれにしても、「お店」はとても大事です。
「おいしさ」は料理の味だけで決まるわけではありません。体調や気分、だれと一緒に食べるか、そしてお店の雰囲気。いろいろな要素が作用します。
どんなお店がいいのかは、料理によって変わります。「鯛や」の鯛メシは旧家のお座敷で食べるから心に残り、「弥生軒」の唐揚そばは我孫子駅のホームで食べるからおいしいのです。
そのお店の料理を引き立てるのが「いいお店」です。いい言葉が写真を見るために背中を押すように、いいお店は料理を味わうために心を整えてくれます。
「ひらご寿司」のカウンターでいつも考えています。
「おいしい」ってなんだろう?
---
それは「命」。
最近、そう思っています(1ヶ月後には変わっているかもしれません)。
おいしい魚には「命」を感じます。「海の記憶」のようなものです。
鮮度だけの話ではありません。
おいしい魚は、「食材」としてではなく「命」として扱われてきたものなのです。海から掬い上げられ、わたしの意識に届くまでの全ての過程で「命」を絶やされなかった魚。
それは簡単なことではありません。あるものはお店が仕入れた段階で「命」を失っているかもしれません。調理によって「命」が消えてしまうこともあるでしょう。そして、わたしたちが食べる時に「命」を素通りしてしまうこともあります。
大切なのは素材の「命」。
これは食べ物に限った話ではありません。
「いい写真」は被写体に宿る命を、「いい研究」は研究対象の持つ「命」を大切に扱っています。料理人も写真家も科学者も(もちろん作家もギタリストも俳優も)、表現者の仕事は「自己表現」ではなく「この世界に宿る命を輝かせること」です。
「表現者」とは「この世界と恋に落ちた人」なのでしょう。