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遠心的なハーモニー:写真の魔法

理論的に合ったハーモニーだけがハーモニーなのではないんじゃないか。一見、合ってないようでいて、実はどこかものすごく遠いところでは合っている、….そんな言うなれば、「遠心的な」ハーモニーというものも、実はあるんじゃないか。(中略)そしてわたくしが常に求め続けておりますのも、こっちのほうの、「遠心的なハーモニー」なのだと思うのです。

吉増剛造「詩とは何か」より
大きな流れの中にいるわたしたちは、その「はじまり」について知りたくなります。天文学者は137億年前の宇宙の誕生過程を探り、表現者は「はじまりの記憶」を形にしたいと願います。
川の大きな流れの中にも源流からの一滴があるように、「はじまりの記憶」はわたしたちのそばにも隠れています。でも、それを取り出すのは容易ではありません。
おそらくそれは、しっかり見ようとすると見えなくなってしまう、そんな類のものです。
双眼鏡で夜空に暗い星雲を探す時、視線を少しずらしたときにそれが浮かび上がる。あの感覚に似ているのかもしれません。
「しっかり見ようとしてはいけない」これは簡単なことではありません。だから、多くの表現者が「しっかり見ない」ための努力をしてきました。(時にはクスリに手を出したりしながら。)
写真には特別な力があります。「意志とは違うものを写しとってしまう力」です。そのおかげで写真は「見ようとすると見えなくなるもの」を捉えるのが得意です。
写真、それは「意識以前のもの」を捉えることができる魔法です。
カメラを手にしたわたしたちは「しっかり見ない」ためにクスリの力を借りる必要はないのです。(使いづらい古いカメラに手を出してしまうことはあっても。)
「はじまり」の気配を感じたら、さっとカメラを向ける。思い通りに撮ろうとする必要はありません。ただ、その気配が消え去る前にシャッターを切るのです。
うまくいけば、そこには「はじまりの記憶」が写り込んでいます。
捉えられた「はじまりの記憶」は、それを見る人の中にある「はじまりの記憶」を呼び起こします。
「遠心的なハーモニー」とは自分の内側の「はじまりの記憶」と外側の「はじまりの記憶」が共鳴することなのかもしれません。
その共鳴を感じたくて、わたしは写真を撮っている気がします。


写真にはふたつの異なる力があります。「目に見えているものを記録する力」と「目に見えていないものを可視化する力」です。「カメラの進化」や「写真の上達」と言う時、それは多くの場合前者の「記録の力」が増すことを指します。でも、それによって「目に見えていないものを可視化する力」は弱まってしまいます。だから「うまく撮ろうとする気持ち」を手放した時の写真は面白いですし、どれだけカメラが進歩しても、使いづらいカメラや写りの悪いカメラは必要とされ続けるのでしょう。


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