WEST END BLUES / LOUIS ARMSTRONG
ピナ・バウシュのダンス作品(の片鱗)を初めて観たのは、ペドロ・アルモドバルの映画『トーク・トゥー・ハー』(2002)の冒頭シーンで、ひとりの女性が目を閉じ、夢遊病患者のように彷徨うたびに、舞台中に散らばった椅子に女性がぶつからないよう、舞台中に散らばった周りのダンサーが動かして行先行先に急いで舞台上に彼女の居場所=余白をつくるという『カフェ・ミュラー』(行先をつくるという所作は子供のころ大好きだったアナログゲーム『チクタク・バンバン』を彷彿とさせた、のだが、誰か覚えていますか覚えてませんか、いつか中古で探して無茶苦茶な値段で辟易した覚えがあります)で、遡ること数年前。実は大学でスペイン語専攻で、日がなひねもす辞書をめくっていたころ、まさに在学中、スペイン語圏の映画音楽絵画など芸術一般を学んでいるころに、アルモドバルの代表作『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999)が当時新進でイケイケだったGAGAがスペイン映画としてはそこそこ大きな予算を組んで派手に配給、映画の感想が授業のレポート課題にもなったりして(もちろんスペイン語圏なので当時は劇場公開もソフトも少なかった。ビクトル・エリセのあれとかこれとか、苺とチョコレートとか、蜘蛛女のキスとかも必死でレンタルVHSで観た)、いろいろ思ったこと1500字くらい書き殴って提出したら「視点は良いが、論点がわからん」だったか、教授の辛辣な赤ペンが入って、これ、その後のわたしの人生を象徴するようなコメントだったなと今となっては思うのですが(そういえば話はそれますがカエターノ・ヴェローゾが鳩の唄歌ってたのは『帰郷 ボルベール』だったかな、あやふやだな、ペネロペ・クルスがスペイン語で罵るセリフはどれも美しい。つまりカエターノが動くのを初めて観たのもアルモドバルの映画だ)。『ダンスって言語じゃないか!』と言語を学んでたときにはまるで思いつかなかったコインシデンスに震え、そのまた数年後。当時勤めていた映画配給会社にてウィリアム・フォーサイスの廃倉庫に沢山のテーブルを並べて沢山のダンサーが踊り狂う作品とか担当して、おおお、言語だ、言語だ!とローザスとか、日本だと康本雅子とか、山田うんとか、いろいろとコンテンポラリーダンスを見はじめて、そのまた数年後。学生の頃には一冊も読みきれなかったガルシア=マルケス、の代表作、『百年の孤独』をベッドサイドテーブルに据え、毎晩毎晩寝る前に読んで、朗読までして、読了したものだ。そのまた数年後。今の会社に勤めてまもなく、ラテンアメリカで若くして逝去した詩人みたいに電池の切れた腕時計をしながら狼狽た表情の痩せぎすの男が、飯田橋周辺で時計屋を探していたときには、もうすでに終わっていたのかもしれない。いつまでもラテンアメリカの若くして逝去した詩人ぶってんじゃねえというような銃口を、実のところ背後にしっかり感じていたはずなのだ、その数年後。仕事で行ったケルンでふと生まれた自由時間を最大限に活用しようと、ピナ・バウシュの拠点がある田舎町ヴッパタールに行って、街を横切るおもちゃのようなモノレールを眺めながら大きい通りを歩き、見つけた古書店でピナの写真集のようなもの(というかいつかの公演のパンフレットだったと思う)をお土産に購入し、そのほかにはピナの手がかりが何にも見つからない田舎町をまさに横切る程度に後にして宿のあるデュッセルドルフに戻った、その数年後。わたしはレプリカのアルミナムチェアにもたれ、ガルシア=マルケスが若いジャーナリスト時代にまさに裂けた直後のベルリンに向かうルポタージュを読んでいる。翳りゆく部屋で。何年も何年も止まない雨に濡れて、ひとりでうちで踊るのだ、ラストダンスは誰かのためにと部屋を見渡しても、もうどれもこれも手元にない。アルミナムチェアも、止まった腕時計も、ピナのパンフレットも。
いやー、音楽と本と映画と、あれやこれや、愛や恋や、ほんとにすばらしいですよね。それでは聴いてください観てください、ヴィム・ヴェンダース監督による渾身のドキュメンタリー『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』から"Season's March"、曲はルイ・アームストロングの"West End Blues"。おやすみなさい、お相手はきむらでした。
いつかみんなで踊りたいですね、これ。みんなって誰のことかわからないですけど。
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