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【短編】寒天の河/it's cold in the Milky Way

ソロモンはケイトリンの誕生日を祝うためグランヴィアにある目的地に向かって歩いていた道すがらに見つけたきれいな卵型の石を拾って身に覚えのない郷愁のようなものに襲われ、気まぐれに、あるいはちょっとしたなぐさめに、カスタード色のカーディガンのポケットに入れたその瞬間、空に極彩色、無数のレイヤーで五芒星型のグリッチが顕れて断続的なホワイトノイズが左耳の後方で小さく鳴りはじめたのだが、最近はそんな種類の荒神の仕業にもこの街の人々は慣れてしまっていて、美しい人生とも醜い人生とも言えぬまま日々を黙々と過ごし、どんな感嘆も無効になり、「最後の失われた世代」(ラスト・ロスト・ジェネレーション)の子どもらですら、もうすっかり怯えぬばかりか、図らずも明後日の方向へ放たれた、老いぼれた、ピエロが売る赤血球にも似た、赤い風船を遠くに見やってはため息をつくくらいには、これからいよいよ華やぐ季節に相応しくない重ためのカラメル色をしたかつて花だったはずの化石が煮凝りのような巨大培養パレットの中でゆらゆらと揺れているような残像が、伽藍堂の尖形オフィスビル群を満たしていたはずだったのだが、もう雨が降らなくなって何年が経過したのかも識れず、もうそんなことを誰も気にしなくなってから何年が経過したのかも識れず、かつてはこの星の表面の8割を占めていたという海に自生していた植物の類を煮詰めてつくられたという寒天の人工合成と、永久機関オートメーションによる大量生産と、帝国による厳重管理および配給がはじまってから何年が経過したのかだって気にするものはいなかったのだから、銀河文明堂(今年創業100000020周年の老舗パティスリー)のショーケースにはプレーン寒天、石灰寒天、竹炭寒天、そのほかいくつかの惣菜系寒天(フスマコオロギの寒天寄せ、干し寒天のスパゲッティーニ風、イラクサモドキとおがくず胡桃の寒天ミルフィーユ風、レモンアリの寒天ミルクティー風等)などはひとつも残っておらず、ただそこの従業員のまかないとしていろんな種類の残滓で簡単に誂えられる、かつてプリンと呼ばれていたものの亜種(あるいはその呼称と語源についてはライスプディング、スフレ、クレームブリュレ、チャワンムシ、グソクムシ、クレマカタラーナ、ヴァレーニキ、ハチャプリ、セイタカアワダチソウ、アウフヘーベン、ボンゴレビアンコ、イェーガーマイスター、エアージョーダン、ゴダールノケイベツ、ソフィーマルソーノサンジュウシ、ピカソノゲルニカなど諸説が入り混じっているのだが、4世紀前の世界的壊滅的な大戦(ザ・グローバル・スクラップ)と焚書のお陰で、この星の食文化史(とあくまで副次的な芸術史)のほとんどがリニアな形で把握できなくなっている。いずれにせよひとびとにまだ豊かな嗅覚(とあくまで副次的に古典的な視覚)のあった、は量子以前の時代のものであって、現代のわれわれにはもう大差のないものだったはずだが)すら見つからないのだから、ソロモンは、というか、わたしは、わたしも、いやわたしが途方に暮れた。

ソロモンとケイトリンは年に一度だけその間に横たわる河を渡って互いへの愛を誓い結ばれるという。卵もない、海も太陽もない、神も花もカラメルもカスタードも、なめらか寒天カスタード風プリンですら見つからない夜に、わたしは間伐材の森の奥のヒュッテの屋根によじ登りセロ風の楽器を弾きながら、漆黒の夜空風の虚空に浮かぶグランヴィアとパティスリー、ソロモンとケイトリンと、その間の副次的な愛のようなものを想像する。あなたはもはや持病になっている首の痛みも忘れてそれらを見上げているのだと思う。もう、何年も、何年も、何年も。手の届かない距離にあるものばかり眺めているのに慣れてしまうには充分な期間。このまま、口を半開きにしたまま伽藍堂の天蓋を見上げてあと幾年か過ごしているうちに、いつかあのたった2日過ぎてしまった賞味期限が、黒いヴェール風のマントに身を包み大きな鎌を構えた賞味期限が、あなたを迎えにきてささやかに甘やかな響きであなたの左耳のうしろでこう囁くのだろう。

「わたしにおまえが切られるとは、皮肉なものだな」

そして件のホワイトノイズが耳以外の器官を満たしはじめる。ボリュームはだんだん大きくなる。音は増幅しつづけ、ただただシンプルな圧、電圧に近づいてゆく。虚空のグリッチのRやGやBのレイヤーが無限に増え続けて重なって白んでいく。あなたはあの河を渡ってくるのだろうか、とわたしは、わたしが、あるいはあなたが思う。思っているはずのことがだんだん遠く小さくなっていく。両の眼がくらくらしている。数万光年先の星の破片に、無邪気に何の由来もない名前をつけるような、微かな声が聞こえるような気がする。あなたにも聴こえているだろうか。わたしは返事を待っている。耳を澄ませて待っている。

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