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秒速5センチメートル

いつだったか、恋ばかりしている友だちに教えてもらった。
秒速5センチメートル。
それは、桜の花が宙を舞い落ちるときの速さらしい。

「テストには出ないよ。だって、学校じゃ教えられないから」
と、その友だちは微笑んで言った。
「実験するには桜の木と頬をなでる風、それから恋してる気持ちが必要なの。それって、理科室の戸棚には入りきらないでしょ?」

春になると、決まってその言葉を思い出す。そして誰かに教えたくなってしまうから、僕は2歳の娘を連れて外に出た。まだ恋を知らない娘がどんな反応をするのか、想像するだけでなんだか胸がくすぐったくなる。

だだっ広い河原に人の姿はなかった。
娘はばかでっかい声で「ゆうやけこやけーの あかとんぼー」とがなり立てている。誰もいなくてよかった。僕はそう思い、誰かがいて僕らを見てくれたらよかったのにと思い直した。夕焼けの桜並木を二人で歩くなんて、まるで恋人同士だ。

つないだ手をぎゅっと握ると娘はくすぐったそうに微笑み、
「おとうさん」
と首を横にころんと倒して言った。
「シーシーでたのね。あとでオムツかえてほしいのねえ」
どうやら、恋人になる前に済まさなきゃいけないことが僕にはいっぱいあるらしい。

見納めだった。
わざわざ立ち止まって見上げる人は誰もいない。桜の木は花のほとんどが散っていて、残り少なくなった花びらがひらりひらりと枝からこぼれ落ちていた。つい先週まで人でごった返していた並木道はなんとなく赤茶けていて、薄い色の空がぼんやりと川の上に広がっていた。

「さあて」
僕は胸を張って娘に言った。
「ほら見て。この花びらが落ちる速さはね、いーちって数えるあいだに……」

言い終わる前に、娘の表情がさっと変わった。娘は秒速5センチメートルで舞い落ちる花びらを指してこう言った。

「サクラさん、ないてる。なみだがポロンポロンなのねえ」

「え」と思って桜の木に振り返った瞬間、僕の頭の中で先週見た満開の桜が焦点を結んだ。まるで、真っ暗な部屋の中でやっと探しあてたスイッチを押したみたいだった。満開の桜が頭の中で淡く発光していた。それは数十本も数百本も立ち並んでぼんぼりのように光り、枝いっぱいに溜めたピンク色の涙をいっせいに散らすのだった。秒速5センチメートルで宙を流れる桜の涙。

「きれいだね」

僕はそう言って、娘と一緒に舞い落ちる花びらを見つめていた。秒速とか恋とか理科室とか、何を言いたかったのかわからなくなっていた。ただ、足下に溜まったピンク色の花びらを見るうちに、娘もいつか恋をして(花嫁衣装なんか着ちゃって)僕から離れていくのだと唐突に思った。その時がきたら、こう言って涙を一粒こぼすしかないのだろう。

「きれいだね」

僕はぎゅっと握り合わせた手を緩め、彼女が好きに動けるようにした。

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