海に行くつもりじゃなかった
「この音なあに?」
小さな娘がそう聞くから、僕は思わず襟を正しちゃう。
表ではトンビが輪を描いて、隣の家の子どもはうそ泣きばかり。宅配便はお届け先を間違え、雄猫はあくびをかいて後ずさりしてる。生真面目なのは僕くらいなものだ。
娘は大きな目をクリクリさせて、小さな子どもにだけ許された特権を使う。つまりは、無知であることを知らないのだ。
「なんの音なの?」
雨が上がっていくパラパラという音を聴きながら、僕は娘の耳にヒソヒソ。
「雨さんが靴を脱いだんだよ。これから海水浴に行くんだ」
ふんわり口を閉じた娘の想像のビーチで、雨がパラソルを開いている。虹色のカラフルが真っ白い砂にぐさっと立てられ、風は西から東へ。
僕らはベランダの前に座って、しだいに晴れ上がっていく空を見ていた。鉛色の雲の裂け目から、光の階段が歩道橋に向かって降りていく。
娘が聞いた。
「あめさん、どうして海にいくの?」
「海に行くつもりじゃなかったんだよ」
僕は言った。
「お空に帰りたいから海に行くんだ。覚えてるんだね、そこからまた雨になれるって」
今朝のこの密やかな雨が、どうしてこのベランダに振り込んでくれたのか僕は知らない。ちょうど、この子がどうして僕のところにやってきたのか知らないのと同じように。
娘は来週4歳になる。
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