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ツイ哲20200810の記録②


ラインE
E1 Kimura FUMITO 8/15 18:11
すみません。強い反対意見がなかったため、案③とさせていただきました。
これまでの進行の整理(開始順) それぞれの議論に言及するときには、「Aの~」などとご発言ください。
Aライン Letrangerさんが始点で、「理解」や「善さ」について議論

E2 Kimura FUMITO 8/15 18:13
Bライン hitsujiさんが始点で、「他者の存在を認めること」について議論
Cライン 哲学探偵さんが始点で、「他者の尊重を尊重することの普遍性」についての議論
Dライン Kimuraが始点の、ルールの再設定のライン
Eライン このライン
よろしくお願いいたします!

E3 Kimura FUMITO 8/15 19:06
【問い①】「他者の尊重」とは、「他者の意志の尊重」ではないという点は、AとBで一致しています。Aでは善さという基準による「相手自体の尊重」、Bでは「相手の意思に耳を傾けることや存在理由を想像する」ことによる「相手の存在を認めること」とされました。AとBは同じことを言っているでしょうか?

E4 Kimura FUMITO 8/15 19:07
【問い②】Cでは、「他者を尊重する」には普遍性が必要だとされました。この論点は、Aの最後のほうで、善という語が表す「人が向かうべき方向性の様なもの」が社会の成立には必要だとする主張、およびBの他者の尊重と自分の尊重とが関連しているという議論と、どのように関係する/しないでしょうか?

E5 hitsuji 8/15 19:29
「相手の意思に耳を傾ける」ことを通じて「相手の意思を尊重」し、相手もまた「尊重された」と認められる場合もあると考えていたため、「尊重することは、相手の意思の尊重ではない」という考えを示したわけではありません。

E6 Letranger 8/15 20:41
問い②に関し,人がすべき方向性としての善があることの普遍性,即ち,
・善いことはすべきこと=正しい
・善いことはすべきでない=誤り
という普遍性を踏まえて,

また意志について,
・善さが相手の思いにあれば,その思いは意志.
・善さが相手の思いになければ,その思いは単なる欲望.
と仮定すれば,(続)

E7 Letranger 8/15 20:42
尊重の性格として,
・相手の意志を尊重すべき=正しい
・相手の意志を尊重すべきでない=誤り
もまた普遍的と思えます.

というのも,
「相手の意志は尊重すべきである.
なぜなら,相手の意志である以上,そこには善さがあるからであり,善さがある以上,それはすべきことだからである」のように,(続)

E8 Letranger 8/15 20:45
尊重の性格を善の普遍性から述べられる様に思えるからです.
また尊重の具体的動作として端的には「妨げないこと」とすれば,善の普遍性から導かれる尊重の普遍的定義として,「私たちのすべきことである善を含む相手の思いである意志を妨げないこと」といえる様に思います.(3連続になり済みません)

E9-a1 Kimura FUMITO 8/15 22:43
>hitsujiさん
「相手の意志がわからなくても相手の存在の尊重は可能である」という立場と理解しておりました。この立場では、「〈相手の存在の尊重=相手の意志の尊重〉ではない」とはやはりいいうるように思います。勿論、相手の意志の尊重と相手の存在の尊重とが揃うケースもあるでしょう。

E9-a2 hitsuji 8/16 7:00
それは「(知らない)相手の存在理由を想像する」場合ですね。「(知っている)相手の意思に耳を傾ける」場合は、「相手の意思に耳を傾ける」ことを通じて「相手の意思を尊重」し、相手もまた「尊重された」と認められる場合もあると考え、最初のコメントに双方を並列して書いていました。

E9-b1 Kimura_FUMITO 8/15 22:50
>hitsujiさん、Letrangerさん
以上が正しい理解であるとすると、やはり二人の「尊重」は相違していると思われます。Letrangerさんは、善を含む意志を利己的な欲望とを区別した上で、意志を尊重するという立場に展開されましたが、やはり相手の意志がわからない場合は尊重できないと考えられますので。

E9-b2 Kimura FUMITO 8/15 23:30
>Letrangerさん
「人がすべき方向性としての善があることの普遍性」についてですが、問題は、この「すべき」が時代や文化に制約されていることではないでしょうか。たとえば「特攻すべき」という時代であれば、それが善であり、その意志を尊重することが、相手を尊重することになりかねないでしょう。

E9-b3 Kimura FUMITO 8/15 23:35
以上はおそらくLetrangerさんの主張されたいことではないのではないかと思います。以上の文化相対主義的な立場を回避するための一つの方途は、その善を普遍的な善 (たとえば、生命の尊重or利他的であることなどとして) と考えることですが、そのようにお考えになるでしょうか?

E9-b4 Kimura FUMITO 8/16 5:48
おはようございます。
(100%私に責任がありますが、)やや議論が抽象化し、活発な議論が難しくなっているようにも思います。勿論、このまま続けて頂いても大丈夫ですが、「尊重されていない」と感じたときの具体例などをあげて、それを考察しながら皆さんで議論をしていってもよいかなと思いました。

E9-b5 Kimura FUMITO 8/16 5:50
私の場合は、①「コンビニで未成年と疑われ、お酒を買えなかったとき」、②「論文の趣旨を誤解され、難癖をつけられたとき」などに、尊重されてないなあ、と感じます。
皆さんは、いかがでしょうか?

E9-b6 Letranger 8/16 9:47
「相手の存在の尊重/相手の意志の尊重」に関し,「善性が認められるが故に意志といえる相手の思いを妨げない事が尊重であり,そうでない思いである単なる欲望はむしろ妨げる事が尊重になりうる」とする私の定義は,Aラインの最初に私が述べた,「相手を理解せずとも尊重はしうる」と矛盾します。

E9-b7 Letranger 8/16 9:50
「相手を理解せずとも尊重はしうる」の具体例で私が思っていたのは,「よく知らない初対面のお偉いさんを接待する」というもので,これは尊重といってもいいだろう,と思っての事でした.
しかし,仰るとおり,これは相手の存在の尊重といいうるものの,相手の意志の尊重とはいえないと,私も思いました.

E9-b8 波乗りオーク 8/16 12:27
忙しく、中々参加できず、すみません…
見ていないうちに議論が大変高度なものになっていて、私の理解が及んでいなかったら大変申し訳ないのですが、Kimuraさんの「尊重されていないと感じたとき」という視点はとても大切だと思います(ここまでで議論されてこなかったところかなと思います)。

E9-b9 波乗りオーク 8/16 12:28
というのも 、如何に「他者の存在」を尊重しようとも、また、「他者の善なる意志」を尊重しようとも、それでも他者そのものが「全然尊重されていない」と感じることがあるように思うからです。
尊重という言葉がなぜ必要なのかと考えた時、これは考慮されなくてはいけないような気がします。

E9-b10 Ris哲 8/16 13:03
こんにちは。「尊重されていない」と私が感じる時は、他者がお互いのことを理解しようという方向性で会話をするか否かにあるような気がします。
kimuraさんの挙げている2つの例に関しても、最初に起きた勘違いから、相手のことを理解しようという姿勢で会話が進むのであれば、私はそこに尊重がある

E9-b11 Ris哲 8/16 13:05
と感じてしまいます。つまり、相手を尊重するプロセスとして、そのような勘違いも必要だということです(実際に、初対面の相手のことなど勘違いして当然とも思います)。
どこからが尊重か、尊重でないかという基準はなかなか決めるのが難しいように思います。よって、そのようなプロセスを通して

E9-b12 Ris哲 8/16 13:08
相手を理解する姿勢があれば、それは尊重していることになると考えています。
これらが正しいとすれば、私が「尊重していない」と感じるのは、そのような会話に応じない、自分勝手な発言のみで会話を進める場面となります。
これは、存在の尊重ではあるが、意志の尊重ではないに当てはまるかも…

E9-b13 Ris哲 8/16 13:10
すいません。三連投になっていました。気をつけます。#ツイ哲20200810

E9-b14 Kimura FUMITO 8/16 14:45
ラインBでの議論とも関わるのですが、ずっと気になっていたのは、aがbを「尊重する」ときに、bが「尊重されていない」(例えば侮辱されている)と感じている場合、「尊重している」と言えるのかな、ということです。
また、見知らぬ不特定の他者と、目の前の他者では、尊重のあり方が異なる気もします。

E9-b15 Kimura FUMITO 8/16 14:48
「あらゆる人のセクシャリティを尊重する」という尊重は形式的なものといえ、それに対して「目の前のその人のセクシャリティを尊重する」という尊重は具体的なものでしょう。
この具体的な尊重は、Ris哲さんが仰ったように、相互的にしか成立しないのではないかと思います。

E9-b15-a1 Letranger 8/16 15:48
「善」の普遍性に関し,「善」という語で表される「人が向かうべき方向性」がなければ,社会が成立しえない,という意味で,この「人が向かうべき方向性」(=善と名付けます)は,社会に生きざるをえない人という存在にとって,普遍的に,あらざるをえないと思います.
他方「善の内容」の普遍性に関し,(続)

E9-b15-a2 Letranger 8/16 17:53
Aラインで述べた“利己的でない卓越性”という,私が思う「善の内容」の普遍性を訴えるわけではないですが,普遍性のある「善の内容」も規定しうる様に思えます.
「善の内容」を上記“利己的でない卓越性”としても,ある時代・地域が推奨する●●に関し,それがそのまま「●●すべし」と変換されずとも(続)

E9-b15-a3 Letranger 8/16 17:59
ある人の●●する思いが,私達の知り得ないさまざまな具体的状況によってとらざるをえない,上記「善の内容」を満たす唯一の選択肢だったりする事もある様に思われ,
即ち,私達には●●にそのままでは善を感じられずとも,多くの具体的状況によっては私達と同じ「善の内容」に従い尊重しうるとも思えます.

E9-b15-a4 Letranger 8/16 18:06
前の前の発言の後半が分かりにくいので,下記のように読んでください。
例えば「善の内容」として上記「利己的でない卓越性」としたとき,それが,ある時代・地域が推奨する●●についてそのまま「●●すべし」と変換されずとも,
以上。

E9-b15-a5 Kimura FUMITO 8/16 17:08
①「人が向かうべき方向性」(=善)は、どんな社会にもあることと、②「善の普遍的な内容」を「利己的でない卓越性」と規定することとを区別する、と理解しました。
そのうえで、②はあらゆる共同体を超えて普遍的になりえますが、①の善は、しばしば特殊的なものに留まるといえそうです。

E9-b15-a6 Kimura FUMITO 8/16 17:10
例えば「人類全員を大切にする」という行為は、善②であるのに対して、「自国民だけを大切にする」という行為は、善①(その共同体の中でのみ正しい)という感じです。しかし以上の前提のもとでも、「隣人を大切にする」という行為は、①と②を同時に満たす行為といえるのではないでしょうか?

E9-b15-a7 Kimura FUMITO 8/16 19:15
さて、皆様ツイ哲#20200810終了まで一時間を切りました。言い足りないことがある方は、ぜひ。
終了後はラインを変えて、自由にアフタートーク(感想など)をする機会を作るつもりです。

E9-b15-a8 Kimura FUMITO 8/16 19:44
善①②が揃った場合、その人の意志や行為は尊重されるべきといえるでしょう。善①②ともに欠き、相手の意志が悪いもの(欲望)であった場合、私としては、その欲望(を有する人)は尊重するに値しないのではないかと考えています(あまり練られてないので、確信はないです)。

E9-b15-a9 Kimura FUMITO 8/16 19:47
問題なのは、①は満たすが②は満たさないという場合、たとえばわれわれから見れば差別とされることが肯定され普通になっている社会に対して、です。
ただ、この場合、「他者の尊重」という枠組みではない議論となりそうな予感がします。

E9-b15-a10 Kimura FUMITO 8/16 20:06
さて、時間となりましたので、#ツイ哲20200810 はここまでといたします。参加していただいた皆様、ありがとうございました。
別のラインでアフタートークをしたいと思いますので、よろしければぜひ。

E9-b15-a11 Letranger 8/16 20:32
“利己的でない卓越性”としての「善の内容」(=善②)は、例えば、ある個人をとりまくさまざまな具体的状況によっては「原発事故対応の決死隊へ志願すべし」と矛盾せず、従って、それを含む場合があり、そのためその意志を尊重しうるように思えます。
(続)

E9-b15-a12 Letranger 8/16 20:35
しかしながら、仰るとおり、「差別すべし」は、そもそも上記善②の“利己的でない”という部分と完全に矛盾しているので、もし「差別すべし」を「善の内容」とする時代・地域があれば、「善の内容」に関しては文化相対主義に陥らざるをえなくなってしまうように思えます。

E9-b15-b1 哲学探偵 8/16 15:40
以下のひとつでも感じたとき、尊重されているとは感じられないと私は思います。
a.私の思いや行動なのに私に決めさせず支配しようとしてくる
b.私について確認・理解しようとせず勝手に決めつける
c.自分の意味や解釈だけが正しいと強制してくる

E9-b15-b2 哲学探偵 8/16 15:47
自分が自分を尊重するとき、他人から尊重されたいとき、他人を尊重するときに重要なことは以下ではないかと思います。

・支配しない/させない
・誤解しない/させない
・強制しない/させない

思考や行動の正しさや善悪を「他人が審判する」のは、たとえ正当だとしても尊重ではないと思います。

E9-b15-b3 哲学探偵 8/16 16:07
・私に対してはやめて欲しい
・あなたのためにならないと私は思う
・あなたを大切に思う私の気持ちは理解して欲しい

これらを伝えつつ、当人がどう考え行動するかは当人に決定権があると思うから、当人が決めればよい…という態度を崩さないことが、お互いを尊重することになると思います。

E9-b15-b4 Kimura FUMITO 8/16 18:41
具体的な他者との関係においては、

①お互いを尊重すること(尊重が成立していること)
②お互いを尊重しようとすること(そうした姿勢をもつこと)
③尊重したつもりになっていること

の区別が必要で、中でも②が重要という気がしてきました。

E9-b15-b5 Kimura FUMITO 8/16 18:45
つまり、①は容易に③に変化しますし、自分では①のつもりが相手からすれば③だったということもあるでしょう。それを避けるためには、常に相手の機微に敏感となり、自らのあり方を反省することとしての、②のあり方を動的に保つことが大切なのではないかと思います。

E9-b15-b6 哲学探偵 8/16 19:05
つもりは具体的な行動が不明なので「私は尊重しているつもりだから尊重になっている」というトートロジー的な状態と思います。
はっきりさせるためには、尊重を成り立たせる【具体的な行動が為されたか否か】を判断基準にする必要があると思います。

E9-b15-b7 哲学探偵 8/16 19:15
補足ですが、尊重、善、思いやりなどは、よく混同されると私は考えています。混同されるという意味は、切り離して考える要素なのに切り離せていないという意味です。
たとえば、赤色の条件を考えているときに、赤であれば必ずイチゴ味のはずだからイチゴ味でなければ赤ではないと考えることです。

E9-b15-b8 Kimura FUMITO 8/16 19:34
言葉が足らず申し訳ありません。
私の①~③のうち、尊重が成立しているのは①のみです。②は①を目指して努力している状態です。
しかし①は、(相手の真意が確証できないため)神以外の存在には、「成立してそう」とはいえても、「成立している」とは確言できないと考えます。

E9-b15-b9 Kimura FUMITO 8/16 19:36
③→①へと漸進するときの手がかりとなる(ある態度が③なのか①なのかを決める基準となる)のは、具体的な態度や言葉などの行為である、というのは完全に同意いたします。

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