見出し画像

「Twitterでゆったり哲学対話」を終えて


 まず参加していただいた三名の方に御礼申し上げたいと思います。今回は、哲学プラクティス連絡会の増刊号へ掲載を目指すということで、参加の敷居が高くなってしまうことを心配しておりましたが、積極的に参加していただいたことで、対話が成立いたしました。また、哲学対話としても、雑誌へと掲載するのに相応しいものとなったのではないでしょうか。

 以下、雑感を書かせていただきます。


①今回の新形式と「Twitterで哲学対話」との相性

 今回は、哲学対話としては長時間である一日半という時間を使うという点と、一時間に一回だけ発言できるというルールを設けた点が、前回の「Twitterで哲学対話」との最大の相違点であったといえます。前回の「Twitterで哲学対話」は通常の哲学対話と同様の没入感がある反面、かなりの疲労感を覚えたことは確かであり、今回の新設定・ルールによって、文字通り「ゆったり」、普段の生活の合間に、別の仕事をしながら哲学対話を継続することができ、それはとても良いことだったように思います。勿論、個人の好みの問題ではありますがTwitterというフォーマット上で哲学対話を行うという点では、今回の形式のほうがよりベターであるように思いました。


②ルールの重要性

 対話の内容にも関わることですが、ルールによって、他者の人格を尊重するということが、半ば強制的に促されるということがあると、改めてわかりました。たとえば哲学カフェのルールとされることが多い、「傾聴」「コミュニケーションボールを持った人だけが話せる」というルールは、発言者を尊重することをルールという面からも強いる制約であったといえます。

 今回の「Twitterでゆったり哲学対話」で設けた一時間に一回というルールは、結果として相手の発言をよく読み、自分の発言についても何度も推敲することを促すため、結果として相手の人格の尊重を促すという効果があったのではないかと思います。

 当たり前と言えば当たり前なのですが、どのような哲学対話(とその形式)を志向するかによって、設定すべきルールは異なってくるということ、ルールの重要性を、あらためて強く感じました。


③より自由に

 「哲学カフェに来ると、日常性から解放されて、自由になった気がする」というのは、けっこうよく聞く気がします。勿論、これはとても素晴らしい意見で、世間の先入見から距離をとることは、哲学の効能のひとつだといえます。しかしながら、これまで誰もが自明としていたのは、その「哲学カフェ」という空間と場所に拘束されることによって、そのような自由は獲得されたということです。つまり、哲学カフェに来ながら食事をしたり洗濯をしたりすること、ましてや仕事を行うことはできず、日常生活から離れて非日常的な場に来ることによって、「哲学カフェ」の自由は形成されていたといえます。つまり、日常性から解放されていると同時に、非日常性に囚われていたといえるだろうと思います。

 オンラインでの哲学対話を設計する際、ZoomやSkypeなどで、参加者の顔を見ながら行うというのが、一般的な手法といえます。それは、おそくら知らず知らずのうちに、従来の哲学カフェの様式、つまり空間と時間とを共有するという様式に近づけることを志向しているためであるといえます。勿論、それは悪いことではなく、むしろ良いことであるかもしれません。「Twitterでゆったり哲学対話」の最後のほうで身体性が話題となりましたが、相手の身体が現前し、その呼吸がわかるからこそ、相手との間合いが取れ、相手を尊重した対応ができるという面があるためです。

 しかし、対面での哲学カフェが不可能となった現在、まったく異なったコンセプトの哲学カフェを模索してもよいのではないか、と考えました。それは、同じ空間と時間を共有せず、身体性を極力希釈していくという方向性です。それによって、身体性がないことによるデメリットは生じますが、反対にメリットも生ずるのではないかと考えたためです。

 メリットとは、第一に、先述したように、日常生活を送りながら(つまり、非日常となることなく)哲学対話を行いうること、別言すれば、哲学対話のある日常を実現できることです。

 また第二に、相手の身体が現前することによる、先入見から逃れることです。つまり性別や容姿、年齢といったさまざまな特徴を有する身体は、いくらそれに囚われないようにしようとしても、やはりそれが現前していることで、自他に対して何がしかの影響を有するといえます。また身体の現前は、相手が「誰」であるのかを露呈しやすくします。先述したように、身体の現前は、間合いをはかることを容易にするというポジティブな面もありますが、性別や年齢といった要素が上下関係などを生むように作用することがあることは否定し得ないでしょう。身体性を現前させないようにすることによって、相対的に身体性の拘束から自由な対話、やや過剰な表現をもちいれば、精神同士のより純粋な交流が可能となるといえます。以上の第二点のほうは、この企画を発案した当初から考えていたわけではなく、実際に対話を行う中で、私自身が感じたことであります。


④いかにデメリットを抑制するのか

 しかしながら、身体性の現前が伴わないことによるデメリットも当然あります。たとえば、しばしばSNSで批判が過剰化(「炎上」化)するのは、相手と自分の身体が現前しないことによって、その人格に対する尊重が作動しにくくなっていることが理由のひとつでしょう。つまり、身体が現前しない状況では、目の前に相手がいたらなされないような言動が比較的容易に行われやすくなります。そのことを抑制するためには、②で述べたようなルールの徹底と周知が必要といえます。そのために今回の企画の前に、執拗にルールとコンセプトをツイートしましたし、参加者には個人的なDMによってそれに同意する旨の確認を行いました。

 また、最初から哲学プラクティス連絡会の増刊号への掲載を目指すと宣言していたこと、つまり現在の対話が残るということは、参加することのひとつの枷となったといえますし、発言する際に、このツイートをその時見ている他者だけではなく、もっと後で見ることになる他者の眼差しをも半ば無自覚なまま感じることによって、より自己を律した発言となったということができるでしょう。ただ、これはたとえ雑誌への掲載を目指さないようなツイートであったとしては、Twitterでの発言が本来残るものである以上、本当は普段からそのように自らを律していなければならないともいえます。


⑤Twitterでの哲学対話の特徴

 Twitterでの哲学対話の特徴のひとつは、その公開性にあるといえます。空間と時間を共有するという従来の哲学カフェは、暗黙の裡にその空間と時間を共有しない者を排除していたといえます。まず確認しておくべきは、このことは何らネガティブなことではなく、まずこれまでの人間社会においては当然のことであり、むしろこの排除によって哲学カフェの安全性は確保されていたといえます。Twitterでの哲学対話においては、そのような空間の共有は必要ではなくなり、また今回のような長時間にわたる哲学対話においては、時間の共有も部分的となります。

 そのような公開性の拡張は、ルールを無視・理解しない方が参加をしたり、暴言を吐いたりする方が参加するというリスクを生じさせるため、安全性を低下させます。今回の「Twitterでゆったり哲学対話」では、そのような発言があった場合、ブロックをするなどの措置をとること、あるいは雑誌に投稿する際にKimuraの判断で発言を削除することがあることを明言しており、また先述したように、雑誌に掲載されるということは一種の抑止力となっていたのではないかと推察いたしますが、やはりリスクをゼロにすることはできていなかったですし、原理的にできないといえます。つまり、ルールを無視した人が参加することによって、他の参加者が嫌な思いをしたりする可能性は、やはりあっただろうと思います。そうしたトラブルなく企画を終えることができたのは、色々な予防線ははりましたが、結局のところ、一重に運がよかったのだろうと考えています。

 勿論、これらのリスクは、通常の哲学カフェでも抹消しきれないものではありますが、そのようなリスクは、今回のようなTwitter企画ではより大きく、そこに対する気遣いはしすぎるくらいしたほうがよいだろうと思います。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?