見出し画像

(2)愛知県渥美半島から宮崎県新富町へ

※冒頭の写真は今年の新富町の櫓です。


(昨日からの続き)

1960年ころからの調味液で味付けするという
新しい技術によって短期間で大量生産が可能になった。

またプラスティック包材に入れて殺菌処理をすることで
当時は賞味期限という概念がなかったが、
常温で長期間保存が可能になった。


上記の2つの条件から各メーカーは設備投資をし、
よりたくさん生産が可能になり、原料の確保が重要になってきた。

そういう需要もあって、渥美半島では、生大根のセリ市や
ぬか等で漬け込んだぬか漬け原料のセリ市も始まった。


ただ、需要量に対する供給量の不安は募るばかりで
新しい産地を求める企業、そして一次加工(塩漬け)された
原料の確保に力をいれる傾向も生まれ始めてきた。


同じ頃、鹿児島県のたくあん業者が大根栽培の適地として
宮崎県に着目し、沢庵用生大根の栽培が始まった。


生産量が増えることによって、宮崎県にも沢庵工場が
でき始めた。

1968年には田野町農協(現:JA宮崎中央)ができ、
いよいよ宮崎県でも干し大根の栽培が本格化してきた。


その直後の

1972年、宮崎県新富町に、
キムラ漬物株式会社のグループ企業として、
米ぬか発酵製法を引き継ぎ、

キムラ漬物宮崎工業株式会社

が生産地直結の加工場として設立された。


こうして新富町で、沢庵の生産が始まった。


当初は、
渥美たくあんで行っていた大根の品種、
海岸で海風を頼りに干していましたが、

その後、宮崎の風土にあった品種、
そして内陸の高台で干し始めるようになった。


皮肉なことに、渥美半島では産地の移動や
オイルショック、施設園芸の導入やキャベツへの作物転換など
たくあん用生大根の生産が減少傾向へ変化した。

そのため、キムラ漬物株式会社としては
宮崎の会社の次に、1980年には山形県村山市に
生だいこんの一次加工(塩漬け)を行う、
山形工場を建て新たな産地の開拓を行なった。


私自身も小学校の頃、宮崎の工場へ来るために、
初めて飛行機に乗ったという思い出の場所でもあります。



まさか、その数十年後、宮崎に住んでいるとは
当時は思いもしませんでしたけどね。


そして、今でも契約生産者さんのおかげで
たくあんづくりができています。


(続く)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?