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『笑いの哲学』ができるまで(1)最初に考えていたタイトルは「笑えない世界」でした

こんにちは、初めまして、木村覚(きむら・さとる)です。関東圏の女子大学で十数年、教員として働いています。先日『笑いの哲学』という本を書きました。笑いを考察した本です。多くの人に、この本に興味を持ってもらい、またできることなら手にとってもらいたいと思っております。そこで、noteにて『笑いの哲学』ができるまでの顛末や『笑いの哲学』で書きたかったこと、書き逃したこと、できたら今後こんなこと考えてみたいといったあれこれをお話ししたいと思っております。

本書の構想は、だいたい3年ほど前からありました。最初に付けたタイトルは『笑えない世界』でした。それは『笑いの哲学』の第一章を中心にした構成と言えます。優越の笑いが蔓延する世の中で、笑いとは「笑ってはいけない」とされるものになってきた、という点に重点を置いた原稿になっていました。

おおよその構想ができたとき、思い切ってどなたか編集者に読んでもらいたいと思うようになりました。自分一人で書いていると、これがどこまで書けているのか、意図や構想は十分読み手の欲望に応えるレヴェルになっているのかどうか、そういったことが分からなくなります。本書は、10年ほど前から「滑稽さの美学」というタイトルで大学の講義として、本務校や非常勤先で何度も学生を前に話してきた内容をベースにしています。学生が興味・関心を持つ度合いはだいたいわかっていました。難しいと思われる部分もあるにはあるけれども、強く関心を惹きつける部分もありそうだ、と少し、自惚れていたかもしれません。いざ、知り合いのつてを頼りに、一人の編集者さんと四ツ谷のPAULでお会いすることになりました。

積極的な評価を貰えぬまま、彼女が吉本新喜劇が大好きなこと、なかでもすっちーがお気に入りであり、ストレスがたまるとYouTubeですっちーを見まくるのだという話を、静かに聞く役に徹していました。

ああ、この編集者さんは、この原稿が書籍になるイメージを持ってくれなかったな、、、と思いながら飲むPAULのコーヒーは苦かった。けれども、今思うととても素晴らしい一言をくれたのでした。

読んでみて、ポリティカル・コレクトネスとか、政治的な問題についてもっと考えてみたいと思いました。

この件があって、しばらく原稿のことは考えないことにしていました。編集者さんにお礼のメールさえ書けませんでした。まあ、書籍化は無理なのだろうな、と一旦諦めました。その後、2019年の春から夏にかけてサバティカルという研究休暇を得てアメリカに半年いる間、ともかく体を鍛え、釣りをし、アメリカ流の食生活(肉!肉!肉!)を楽しんでいると、次第に元気が全身にみなぎるようになりました。このパワーを活かして、帰国後、改めて原稿を書き直してみることにしました。毎日、3, 4時間、夕食後に、作業を続けました。最初に行ったのは、(本書の第一章で言及している)「マイクロ・アグレッション」についての専門書を読むことでした。それは、四ツ谷でお会いした編集者さんが関心を持ったところをしっかり考え、書いてみることだったわけです。

それが突破口となって、次第に第一章の輪郭が見えてきました。その後、第二章で不一致の笑いを、第三章でユーモアの笑いをまとめるアイディアが湧いてきました。

人との出会いというのは、やはり重要だなと思います。あのとき、すっちーの好きな編集者さんに会っていなければ、本書はなかった、といまはそう思っています。ただ、吉本新喜劇についても、すっちーについても一行も書かなかったので、あの編集者さんにはやはり本書は不評かもしれません。


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