NASDAQが4.43%下落した日


「ばかな!そんなことってあるはずがない!こないだNYが3%下げたじゃないか!これからはもうあがるはずだ!」

日本時間10/25未明。つい最近聞いたような悲鳴のすべて(参考)は、路傍の露と消えていった。ハロウィンを間近に控えたこの日、勤勉な投資家たちは渋谷の若者たちより一週間ほど早く、デウスエクス・アルゴのしかける破滅と狂乱の宴に、身を投じることになる。

投資家たちはくずれていくチャートを目をこすりながら、何度も何度も見返している。みるみると増えていく損失に溜息と罵倒をくりかえし、「そんぎりしなきゃソンギリしなきゃ…ソンギリ…しなきゃ」とシンジくんか夢遊病者のようにつぶやき、震える手でマウスを動かす。とても簡単な動作だ。ほんのかすかに、そっと力を込めるだけで、巨額損失の決済はできる。それはまさに、ヒトを殺すのとおなじではないか。それさえできないものは、追証というギロチンが降りるのを待つだけである。

歴史は繰り返す。ヒトの歴史はそんなことさえ忘れてしまった、愚かなものたちが紡いできたのである。市場は二たび、悲鳴と嗚咽の嵐に襲われた。さきの暴落で涙さえかれてしまったと思った投資家たちは、再び涙をながせたことさえ、僥倖だと思った。ただ、それは血の涙だった。

投資家たちはさまざまな夢を株式投資に、込めていたのだろう。ある人は家族でささやかな旅行をしたいと思っていたのかもしれない。ある人は大事な人との結婚費用にと、思ったのかもしれない。またある人は、病気の親御さんの治療費にと、決死の覚悟で臨んでいたのかもしれない。すべての夢は無残に打ち砕かれ、投資家たちは等しく平等に、うつと中毒という病気をかわりに得る。今この瞬間が地獄なのではない。彼らはそれでもここに居続ける、またはいつか戻ってくるという未来が、地獄のはじまりなのである。悪魔は不幸をよりひきたてるために、期待という、一抹の幸福を与えてくる。悲鳴と嗚咽が入り混じる市場の隅で、はげたおっさんは苦虫をかみつぶすような顔で腕組みしていた。かれはショートポジションをいつリカクしようか、ハゲるほど真剣に悩んでいた。

わたしのお金は二たび、長い旅に出る。思えば株式投資とはこういうことだろう。自分のお金を長い旅にださせるような行為なのだ。その子がいつ帰ってくるかはわからない。すぐ帰ってくるかもしれないし、永遠に帰ってこないかもしれない。その旅立ちをやめさせて、かわいいわが子のように、懐の中でかわりがりたいのなら、もう株をやめるしかないのだ。別れはつらいものである。「ユキチくん、いつか生まれ変わったら、また一緒になろうね」と、月9ドラマの俳優気分で言うが、こういとき、そのいつかが永遠に訪れないということは、だれもがわかっている。

さて、わたしは先日、ソンギリという腹を切ったはずである。それなのにどうして、まだ生きているのだろう。なぜこの首はまだつながっているのだろう。実は、ほんとはもう死んでいるのだろうか。ならば枯れたと思った涙は、なぜまだ出ているのだろう。なぜ枯れたと思った嗚咽と悲鳴は、まだこんなに、夜間の静寂をびりびりと切り裂くほど、絞り出るのだろう。わたしは幽霊なのか。いや、幽霊がこんなに苦しい思いをするわけはない。わたしはまだ死んでいなかったのだ。あのときの腹切りは不十分だった。わたしの首の皮は、一枚だけつながっていたのだ。わたしが握るなまくらのサムライソードは、柔らかい腹を切ることさえできず、ただわたし自身の墓標となるのみである。

ほんとうの地獄は死ねないことである。腹をきってもきっても、別のポジションという腹が愚かにも生産されていく。苦痛がやむことはない。わたしはこれからも、何度も何度も腹を切っていくのだろう、涙と血がひたひたと湧き、あふれていく溜まりの中で。

おどろおどろしカボチャの馬車が、わたしの遺体を引き取りにやってくる

#株 #投資 #エッセイ #日記 #体験談 #ハロウィン

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