見出し画像

ねこすく ―ねこがきみを救う― 3話

見慣れた駅のホームで

 
 とある日の昼下がり、はんなは飽きるほど見慣れた最寄り駅のホームで、妙な新鮮さをあじわっていた。
 いつもは会社に向かうのぼり電車だが、今日は下りのほうにいる。狭いホームを埋め尽くすスーツ姿の会社員たちがいないだけでだいぶ雰囲気が違う。満員電車に初めて乗ったときの衝撃は、田舎者なら誰もが経験することだろう。はんなはそんな光景を、今日だけは遠くに、自分に無縁のもののように懐かしく感じたかった。
 灰色、乾燥、無味、空虚。はんなはときどき目をこする。人で埋め尽くされた目の前の光景から色が抜けてしまったような錯覚に陥ることがある。そしてだんだんと、自分の体まで灰色に染まっていく。何をしても手ごたえがなく、思い通りにいくこともなく、笑うこともない。恵まれた人たちは、そんな自分の生活を否定する。つまらないのに楽しくなれという、きらいな人と仲良くしろという、鳴きたいのに、いや泣きたいのに笑えという。
 空想は彼女の頭の中でところ狭しとめぐって行き場をなくし、やがて怨念のこもった残骸となる。その堆積が彼女をじょじょにむしばんでいく。
 休日の残り、出勤のため家を出る翌日7:50まであと19時間ほどある。この時間で出来ることはどのくらいあるのか。食事は二回できる。明日の朝は出勤でばたばたしてるので、あってないようなものだが、美味しいものを食べられれば、至福の時をあと二回残しているということである。ゆっくりネットも動画も見れる。ゲームもできるしお風呂も入れる。でも出来ないことも多い。もう時間を気にせず眠ることはできない。月曜のドラマも見れない。彼女はそんなふうに指折かぞえて、乾いた笑みを浮かべた。
 ジーパンにTシャツ、背中には小さなリュックといったラフな格好である。帽子を目深にかぶっているので、遠目には女にも見えないかもしれない。手にはわら状のバスケットを下げている。もう10年以上も愛用している、わたしの移送用である。彼女はよくわたしをつれて外出した。もはやわたしなしでの遠出は考えられないといったぐらいの頻度で、出来ることなら会社にも連れて行きたいと思っているほどだった。

電車に乗ってどこか遠くへ


 電車は比較的すいていたので、はんなはわたしのはいったわら編み状のバックを隣の座席に置いた。わたしはバックの口からひょっこりと顔をだして、車窓の景色や車内をきょろきょろと見ていた。電車の中でわたしのような猫が顔を出すのはまずいのだろが、静かにじっとさえしていれば、それほどとがめられることもなかった。
 はんなは頭だけをひょいとだしたわたしの格好を見て、何かおもしろそうに口元をゆるめた。そしてわたしの頭を撫でて、そのまま親指で右目の瞼に親指を這わせた。
 わたしは人間ほど頻繁に電車に乗るわけではない。それでも同胞たちよりはその機会が圧倒的に多いのだろう。ゆえにわたしにはこういった景色を同胞たちに伝える使命があるのではないかと思っている。われわれの常識をくつがえすようなスピードで駆け抜け、流れていくこの景色は、人間にしか見れないものであり、それは人間の発達、ひいてはわれわれへの迫害の象徴でもある。
 …なんて思索は面白いかなどと、わたしは同胞の怨念さえときに思考たぐりという遊びの道具としてしまう。あるいはどうにもならない絶対的な弾圧に対する諦観にすぎないのか。ヒゲ先が窓に触れる。そのまま窓の表面を這わせるように首をまわす。わたしはあくびをひとつして体を震わせた。この窓の表面にひげ先を這わせるという高等技術は、同胞にさえなかなかな真似できない。ひげは我々にとって重要な感覚器官である。こうすることで、わたしはひげ先の触れたものすべてを理解できる...わけはない。

子供の視線


 周囲の人間からは好奇の視線を集めている。とくに人間の子供は純粋無垢なるその感嘆を隠すこともないようだ。しかし純粋なるものがすべて美しく、真理であるとするのなら、人間は文明を築くこともなかったろう。子供というものは猫も人間も、本能の赴くままに行動するという点では同類だといえる。人間はそのことをどうも忘れているようだ。しかし、ひとつ違う点をあげるとすれば、それは敬意である。我々には文字や言語といった情報を伝える媒体が人間に比べ極端に少ないので、情報を多く保持するのは自然と年長の猫といった図式が成立し、至上の尊厳を集める。情報量の過多が時に生死を分かつことがあるゆえに、情報の伝達がなされにくい以上は、いわゆる年長者の経験が重宝されるわけだ。しかし人間の子供というのは、命知らずなのか、それとも有効な情報の獲得が容易ゆえか、年長者であるわたしに敬意の欠片さえ見せない。挙句、敬意を払うどころかなんのことわりもなく、わたしの毛並みに気安く触れようとさえする。この色つやは一見、日光にやけつき、砂と泥混じりの風雨にさらされ続けたような、きたならしいものにみえるかもしれない。しかし実はそうではない。巨大な樹木が年を重ねるごとに刻んでいく年輪のように、長年の困苦によってしか出せない威厳のある色である。わたしは子供の伸びた手にかみついてやりたい衝動をこらえ、首をまたひょいとかばんにひっこめた。外では子供らの歓声がしばし続いていた。

車窓の景色に


 ややあって、電車は停止信号のため駅のだいぶ手前で停車した。普段は一瞬のうちに過ぎ去る景色が、まるでどっしりと腰を構えたように、わたしの前にそびえた。
「にゃあ」
 だいぶ都心を離れ、乗客はもはやまばらだった。落ち着いた車内にひびいたわたしの鳴き声に、本を読んでいた青年がなにごとかと頭をあげた。
 何故わたしはそんな目立つことをしてしまったのか。ちょうど車窓の向こう正面に見える家屋のベランダにネコがいたからだ。輝くような銀色の毛並みに青みがかった瞳、落ち着いたその挙止は、おそらく人間の愛玩用に改良された種類だろう。同じネコとはいえ、ああいった種類のものとわれわれ野良を起源とするものは、およそ別種の生き物といっていい。高嶺の花といおうか、とにかくわたしのような雑種とは縁遠いものであった。
 猫なんてどこの家にいてもおどろくことではないはずである。後になって気づいたのだが、そのときのわたしには、きっとあの同胞まがいが、囚われのお姫様のようにみえていたのだと思う。それゆえの衝撃だった。
「そろそろ降りてみよっか」
 はんながそのときに、まるでわたし自身でさえ気づいていない心の奥底を見透かしたようにそう言った。わたしに異論があるはずはなく、二人は囚われのギンネコ(銀色のネコ)がいるその町で下車することを決めた。
 助けなければというような青臭い正義感があったわけではない。かといって泣いて助けを乞われながら見捨てるような薄情さもない。ただ、人間は時にわれわれを無慈悲に弾圧する。搾取し、一生ものの傷を負わせることがある。あのギンネコと飼い主の間に、そういう陰湿な関係があるのではという空想は、ある程度のリアルさをもってわたしの一部を支配していた。同時に、一見したのみで得たような空想など一笑に付すような行動を、はんなには期待もしていた。
「あれ?今すれ違った人って、さっき乗るとき降りた人?」
 電車を降りるとき、あわてたように乗ってきた人を振り返ってはんなはそう言った。電車はすでに発車していた。そもそも駅も違うし、時間軸的にもそんなはずはないのだが、はんなは気にした様子もなく、数分後には忘れたようにアイスが食べたいとか脈絡のないことを言い出した。
 彼女はときどき、こういった意味不明というか、ただの勘違いなのか物事を深く見すぎているのかわからないようなことを言った。彼女は理性ある人間としてはまっとうではないのだろうが、真理を感性で導き出すタイプだった。
 出会いと別れは平等である。すれ違う人ともう二度と会うことがないのだとしたら、それがとてもいい人で優しい人だとしても、極悪人だとしても関係ない。しかし人間はときおり、こういった何気ない出会いに、都合のいい感傷を抱くようだ。世界が広すぎるのか人間が小さすぎるのか。われわれはなおのこと矮小であるから、出会いにそんな無意味な期待さえ抱かない。そういえば、さっき向かいの席で子供が泣いていた。母親に甘えているようだが、電車の中だから静かにしなさいと言われていた。わたしは小さく鳴いてあげた。

電車を降りて


 電車を降りるときは念のためバックに身を隠した。休日で駅のホームも親子連れが多いので、余計な騒ぎはもう避けたかった。
 バックの内側の世界というのもなかなかに面白い。周囲から編み目の隙間より漏れた光が刺す様に入り込んで、わたしの体表にぽつぽつと光の玉が浮いているようである。わたしはまたあのギンネコの愁眉を空想した。串刺しされた姫君というのは、なかなかに残酷でエロチックだった。
 どん、という突き飛ばされたような衝撃があって、「すみません」というはんなの声が聞こえた。人ごみでバックが誰かとぶつかったようだ。
「ぬこ、だいじょうぶ?」
 わたしは問題ないといったようににゃあと鳴いた。この閉塞的な環境にはだいぶなれた。はんなが長年同じバックを使ってくれたのもあるが、わたしにはぽつぽつと差し込む光が、まるで社会というせまい折に閉じ込められて拷問を受けている人間のようだとも思った。人間というものに染まっていく自身に嫌悪を抱いていたころを懐かしく思い、同時に彼女の、銀色の体毛が鮮血で染まる様をまた空想した。
 はんなは駅を出て徒歩で移動しているようだ。わたしはバックの中でうとうととしていた。どうも年をとると眠りが浅い。目が覚めていても一日の大半は夢見心地である。はんなが偶然か必然か、あのギンネコのいる町に来てくれたのだが、光にかきえるかのような美しい体毛をまとっていた猫など、いまさらながら夢のような気もしてきた。わたしはもう片足を棺桶、いや、棺桶とは人間の入るものだったか、路傍の土に埋めたような老齢である。現実世界が生前の世界なら、夢の中は死後の世界である。その境が日に日になくなっていくわたしの見聞など、銀など、光など、とるにたらないものだという気分にもなってきた。

レストランや映画や買い物


「あ、予約はしてないんですけど、出来れば、はい、二人で」
 はんなはどこか室内に入ったようである。わたしの入ったバックはどさりと椅子に置かれた。
「さあ、着いたよ」
 そう言いながらはんなはわたしを抱きかかえ、テーブルの上にある白磁の皿と銀のスプーンの前に置いた。
 レストランの店員や客のちらちらとした視線がわたしたちに集まっている。人間と猫がしゃれたレストランの一席で対面しているのである。いぶかしむのも当たり前だろう。
 はんなが純粋に食事を楽しむつもりなのは承知している。彼女は仕事では他人の評価を気にしながら、いわゆる自身の趣味嗜好に関するものには何を言われようと平然としていられるところがある。わたしはそんな楽しげなはんなを細い目でみながら、しばし思考ののち、レストランの店員が人間の客へと用意したグラスに、ちろちろと舌を入れた。
「あのう、お客様?」
「わたしはこれとこれとこれ、ぬこにはあ...ハンバーグ、あ、タマネギ抜きで」
 無邪気な笑みを店員に掲げた数分後、はんなはわたしをかかえてぽつんと店の外に立ちすくんでいた。わたしにはとにかく、能面のような笑みの裏であざけりと失望を示しながら動物の入店を断る、店員の表情が印象的だった。
 次は駅前の映画館に入った。わたしは座席にこっそり座らされ、口にチケットをくわえさせられたうえ、
「ぬいぐるみみたいにじっとしてて」
 とはんなにいわれたが、無理な注文だった。映画館の受付は、明らかに一人しかいないはんなが、チケットを二人分買うのをいぶかしがっていたし、だいたいわたしのように汚らしい格好をした(実はよく見れば深みのある毛並みなのだがそんなよさが人間などにわかるはずもないので)ぬいぐるみなどあるはずもないだろう。
「すみませんが規則なので…」
「これはぬいぐるみですよ」
 動物の入店禁止について言い合っているはんなの横で、わたしはひげ先をびんびんとふるわせるだけだった。スクリーンの光がはんなの横顔を照らしている。稚拙な嘘があたかも道化を演じる名役者のように見えなくもないと感じているのは、おそらくこの場ではわたしだけだろう。大根役者を照らす光は淡くとも残酷であった。
「すみません、試着、いいですか」
「ええ。もちろん…え?」
 洋服ショップにて、はんなは子供用の服を試着室に立たせたわたしに当てながら首をかしげている。店員が困ったように冷笑するのはいつも通りである。わたしに服をみたてようとした彼女の楽し気な様子と、店員とのやりとりについてはさきとだいたい同じなので、このあたりの下りは割愛する。
 三度目の追い出しを食らった後、わたしたちはショップの軒先で、三度めの裏切りと孤独をじっくりとかみしめていた。

だれかによく似た人


 わたしは彼女の中に根強くこびりついている人間に対する深い性善説に対して、時に冷笑し、時にこの欠損した手をみて感銘する。
 彼女の故郷である田舎では、じつはあたりまえのことだった。彼女の猫好きと、わたしがそこらの人間以上に礼節をわきまえているということは周知の事実だったので、よくこうして食事をともにしたり、映画をみたり、買い物につきあったりもしたものだった。それがみんなが顔見知りである田舎と言うせまい世間でしか通用しない常識であることは、わたしもはんなも理解していたはずだった。
「にゃあ」
 そのとき、わたしは思わず声をあげた。あのギンネコが唐突に目の前を通り過ぎたのだ。飼い主らしい女性にリードを引かれながら、すまし顔で闊歩していた。
 すると突然、はんながわたしを抱きかかえて走り出した。そして路地に駆け込んで、ぎゅっとわたしを抱きながら、ギンネコと飼い主が去るのを身を隠して待っていた。内臓をつぶす気か、と思うほど強い力だった。
「あの人に似てたけど、違う。いるわけないよね」
 はんなの手は震えていた。何か異様なおびえを示しているようだった。
「やっぱり終点まで行こうか」
   ギンネコに惹かれていた気持ちがうそのようにふっと消えたわたしは、異論をはさむすべもなかった。
 電車は数分ほど発車が遅れていた。車椅子の乗客が降車するので、駅員がその補助をするためだった。ホームと電車の間にあるすきまに板をおいて、駅員が車椅子の人の手をとり、ゆっくりと誘導する。車椅子の人とその介助人は深々と頭をさげ、駅員は帽子を脱いで返礼した。その様子は、すくなくても彼らのほうが、わたしたちよりこの町に受け入れられているように見えた。

また電車に乗って


 わたしたちはまた車上に揺られている。縁もゆかりもない町との別離を急ぐように景色は流れている。ギンネコは流れる景色に溶け出したよう、わたしの中から消えかかっていたが、その飛沫がまだ少し脳にこびりついていた。これは反省と再発防止のための学習行為でしかなかった。
  薄く透き通ったヴェールを敷いたような高貴さ、優雅さは、わたしにはまったくないものだった。そして非現実的なとらわれの姫などという陳腐な空想。あの猫、そしてあの飼い主、レストラン、映画館、ショップ、つまり町のすべてが、われわれを受け入れることはないという予兆だったのだろう。
 受け入れられなかったということが悲劇となるのは、人間特有のものだと思う。なぜなら人は一人では生きられない、などという妄言が人間の世界にははびこっているらしいので、それを正としなければならないのなら、他者からの否定はすなわち生存を否定することとなる。
 わたしにはその前提条件からして失笑ものである。人間が一人で生きていけないのは固有の社会でのみである。例えばわれわれ猫族と(物理的にはもちろん精神的にも)くつわをならべることができるのならば、一人だろうが複数だろうが関係はない。裏切りや仲違いが日常ならば、複数は逆に不利となる。
 はんなの表情はいぜんとしてさえなかった。最初は電車の中でずっとスマホを触っていたが、ときおりわたしといっしょに車窓を見るようになった。景色はビルや建物はめっきり少なくなり、畑や田んぼとひらべったい家屋の織り成す風景が多くなっていた。畑に敷かれた半月状のビニールドームが並んでいるさまなどは、まるで故郷の風景だった。はんなは思わず、わあと声をあげた。何を見てはしゃいでいるのか、実は畑のすみにちらりと見えた肥溜めだとは、とても人には言えなかった。
 拒絶されたはんなは受け入れ先を故郷に似た場所に求めようとしていた。まぶたに、網膜に焼きついた光景を、においを、故郷によって必死に打ち消そうとしていた。

会社のいやなやつ


「なんで、休みの日にまで」
 わたしはうつむいたままきっとかんだ歯をみせる彼女をめずらしく思った。それは憎悪と言った類のものに近いような気がした。かつてわたしにこのキズを負わせた同胞たちは、みなこのような顔をしていた。ただ、かつての同胞たちのような力強さはまったくなかった。似ているのは感情のみで、彼女には何かを傷つける力も、その才能もないことを、わたしはよく知っていた。力のない彼女は憎悪に似たものを纏うことで、より空虚となっていた。
 はんなはわたしの視線に気づくと、苦笑しながら頭を撫でた。憎悪はすでに影を潜めていた。そういった表情になっていたのは、ほんの一瞬だった。
「会社のいやな人に似てたのよ、あの人」
 吐き出すようにはんなは言った。その人がいやだからそんな顔になったのではない。そういうことを言う自分に嫌気が差しているようだった。
「何がいやかってね、その人はみんなから信頼されてて、真面目で正義感が強くて、正しいことしか言わないの、だから」
 わたしは正義だとか悪だとかの実体のない概念に右往左往する人間を物好きに思った。人間は基本的には自分は正しくありたいと思っており、はんなもまた例外ではない。自身の悪を認めるものは悪ではない。彼女はそんな擁護の声をじっと待っているかのようだった。ただわたしには、はんなが正しかろうと悪かろうと、どうでもいいことだった。
 無味乾燥な言葉と意識が車窓から吹き込む風に掻き消えていく。すでに夕暮れ時に近いが、わたしとはんなは昼食もとってなくて、そのほうがわたしにとってはよほど問題だった。彼女の腹の虫がけたたましく鳴るころ、電車はようやく終点に着いた。

そして終着駅へ


 はんなはしばらく席を立たず、座ったまま窓から差し込む光が溜まる床をぼんやりと見ていた。乗客はすでに降車し、車内ははんなひとりである。うつろな目に、かすかに開いた口元は、これからの出会いに失望しているように見えた。わたしははんなの視線をさえぎるように、光が揺れる場所に腰を下ろした。はんなは唇をすぼめ、そしてかすかに笑った。
「終点なのに線路がある」
 駅員がいる。自動改札がある。売店に人がいる。はんなの田舎では無人駅や改札のない駅もめずらしくもなく、一両編成の電車で、一駅ごとに車掌が降りる人の切符にはさみを入れている光景が日常だった。だからこの終着駅には何か終わりというかんじがなかった。
 駅前のロータリーにはタクシーが何台も列を連ねている。スポーツジムや自動車教習所の送迎車がある。テッシュくばりとカラオケの客引きがいる。 彼女の逃避劇はこういった都会の色を濃く残す光景によって、無残に終わることになった。
「あ、ぬこ」
 わたしはバックから飛び出して町中のほうへと走りだした。といってもゆっくりとした足取りである。それこそ、はんなが息を切らしても見失わない程度に。
 ここではんなが帰ったらどうなるのだろう。いや、わたしがこうしてこの町にとどめて、どうしようというのだろう。
 彼女は都会での生活に疲弊しきっている。それを同情する気持ちはあるが、助けるつもりはなかった。ことは高次な人間の精神というものに関するものである。猫としてのかわいげもないわたしに、彼女を癒すことは出来ない。
 ところで、わたしは時に意味不明な愚行に走ることがある。それはわたしが本来、知能も理性もなく本能のままに行動する動物だからである。だからこういうときのわたしの行動に疑問を持ってはいけない。人間様はどうか、所詮は畜生と冷笑してくれればよい。
 わたしは町の中心から海沿いのほうへ向かっていた。この町が都会のようににぎやかなのは駅前だけで、少し奥に入るとのどかな田舎町といった景色があった。潮が侵食したようにさびついたトタン屋根、年式の古そうな軽トラ、コケの無造作についた塀、畑のすぐそばで靡いている洗濯物と物干し竿、田舎ならどこにでもあるような景色が、わたしの記憶にある故郷を思い返された。

逆立ち毛の猫


「…」
 とある家屋の影に一匹の猫がいる。全身の毛がまるで濡れたように逆立っており、体躯は普通の猫よりひとまわりも大きめである。風体や目つきの悪さから、野良であるのは容易に想像がついたが、彼はその無愛想な目つきのまま、わたしにむかってあごをしゃくった。ついてこい、というようなしぐさだった。
 と、逆立ち毛の野良は一度振り返り、再度わたしのほうを凝視した。やがて軽く舌打ちをすると、猫らしく機敏な動作で姿を消した。どうやらわたしを何かと勘違いしているらしかった。
 猫の消えた方角へ向かうと、古い家屋のある一群を抜けて海沿いにでる。街並みは南国リゾートといった雰囲気となった。海岸沿いの街路樹には南国植物が並び、道路はほぼ直線で構成されている。そして新築の高層マンションと分譲戸建てがかなり目立っていた。このあたりは住宅街として最近急速に開発されたらしく、今も建設工事が進んでいた。
 わたしのひげがしゅんとしおれた。あたりに漂う潮風がいやに重く感じられたが、その中に点々とあの逆立ち毛の臭いが残っていた。やつのばりばりと糊で固めたような毛並みからも、日々潮風と波にさらされたようなにおいがしていた。
 港にはヨットやクルーザーなどが何艘か停泊していたが、中には古びた漁船もあった。長期間手つかずで稼動もしていないようで、人の気配はない。しかし、その甲板に猫が一匹いた。さっきの逆立ち毛とは別猫だったが、わたしと目が合うと、ぷいときびすを返して船室の中へ入っていった。
「ぬこ、どうしたの、いきなり」
 おいついたはんなはわたしを捕まえるように抱きかかえてそういった。はんなには甲板にいた猫は見えなかったようで、新しいヨットやクルーザーのほうに目を引かれていた。
「きっとお金持ちなんだろうね、社長とか」
 はんなの声はいやに感情がなかった。わたしはといえば、キャットフードが百万食は買えるだろう金銭とひきかえにこんなものを選択する人間の神経を疑う程度で、さっきの野良猫たちのほうがよほど気になった。はんなはそのまま海岸のほうに向かった。自然に足が向くほど美しいビーチでもなく、人影はまったくなかった。砂浜は濡れたような鈍色をしており、空き容器、ペットボトル、紙くずや破れた網なども散乱していた。それでもはんながどこか心惹かれたように海をみていたのは、ここが故郷によく似ていたからだった。

海が見たくて


「なつかしいなあ、昔もよくこうして海へ来たっけ」
「にゃあ」
「ん、なんかいやなことでもあったのか」
 故郷の海もそれほどきれいというわけではなかった。海岸のほとんどはごつごつとした岩場で、波も高いので遊泳禁止にもよくなった。深夜には学生たちのたまり場となり、散らかしたゴミが異臭を放つこともあった。
 はんなは息をのんだ。潮風が頬を撫でると、そこに溝をすっと刻んだような冷気が走った。そして静かに、呼気さえ聞こえないままに、まっすぐな涙が流れた。普段は会社のトイレで誰にも気づかれないように泣くのが習慣になっているから、こんなに静かに泣けるのかもしれない。わたしは呼応するように一声鳴いた。どこまでも広がる空と水平線のすべてに、都会での苦労が埋めつくされるよう一気にあらわとなった。
 彼女は故郷にいるときも、時折こうやって一人海をながめていたが、そのときもわたしをぬいぐるみのように抱いていて、わたしもそれに従順だった。これは落ち込んだときの通過儀式のようなもので、いうまでもなく精神的にか弱い人間の茶番である。食事と住居に満ち足りて、それをさがす暇すら必要としないためになせる業である。
「てかお腹すいたな」
 わたしもである。とりあえず彼女の腕から抜け出して海岸沿いを歩いた。はんなはすこし不満げに口をすぼめた。わたしははんなにとって時に知己であり、時に玩具である。はんなの今の気分は後者なのだが、わたしはそんな気分になったことは一度もないというだけである。
 わたしのひげはまたしおれていた。ぐいと力をこめるとその瞬間だけぴんとのびるが、頭をぺこぺこと下げる人間のように、自分の意思に反してすぐしおれてしまう。ヒゲのしおれた猫ほどみっともないものはなかった。それに潮の臭いが強すぎて、店を探そうにも食べ物のにおいがよくわからなかった。ただ、鋭敏な感覚が潮にさえぎられることによって、張り詰めていたものがときほぐれるような気もした。それに潮風を吸い込むことで、塩っ辛さが舌に溶け、空腹をある程度満たすような気もした。
「もう頭きた。ぜったいぬこといっしょに食べれる店を探す」
 小走りで追いついてきたはんなはわたしを拾い抱えてそう言った。
 不安に落ち込むよりも、理不尽でも怒っていたほうがいい。それでもこの決意の無意味さにぬいぐるみのよう雑に抱えられたわたしは嘆息せざるを得なかった。さっきからごしごしと猫の富士額をこすられているのだが、頭の撫で方が雑である。せめてしおれたひげでも伸ばしてくれないだろうか。

おなかすいたので店を探す


 飲食店といえば最近できたような今風のしゃれたレストランや大手のチェーン店ぐらいしかなく、そういう店にわたしが入れないことは聞く前からわかっていた。狙うのは小さな個人経営の店なのだが、新興のベッドタウンにそういう店はなかなか見当たらなかった。古い案内板によると、海沿いの町らしくかつては海鮮の店がいくつかあったようだが、多くは閉店していた。ただ一軒だけ、マンションとマンションの間の、長い影の手中にぬっと握られたような立地に店があった。新しい街並に似つかわしくない大漁旗のような、なんとか丸という屋号の看板が掲げられているが、建物には明かりも人気もなく、営業している様子はなかった。
 街の外郭である駅前と港湾部に新しい風と光があたり、内側には昔ながらの港町がまだ残っている。その狭間に取り残されたようにある古びた店と廃れた漁船といったところだろうか。わたしたちはひととおり海岸のはしからはしまで歩いて、港付近に戻っていった。
 わたしはこの新と旧の対比に、人間の得たものと失ったものが明確に浮き出ているようで面白く思った。何かを得れば何かを失う。それがわかっていても得ようとする短絡的な人間のせいで、すくなくても確実に、新たな苦しみを得る同胞がいる。
 さっき道行く美しい同胞に聞いた話だが、最近、この海岸ではすこし奇妙な光景が見られるという。毎日夕刻になると野良猫たちがいっせいに、どこからともなく現れて波打ち際に整列する、というものである。
 赤く染まる砂浜、夜の闇に落ちていく海岸を前に、猫たちは鳴くこともなくただ四足で屹立する。ときおり人間が奇異の視線を送るが、意に介した様子もない。そして日が沈むと、めいめいどこへともなく去っていく。
「あれって同じだよね、船と、店の」
 はんなのいうとおり、マンションの影にあった店と、さっき猫がいた廃船に書かれている屋号が同じである。つまり店は漁業をかつて営んでおり、そこでとれた魚介類を店で提供していた、といったところだろうか。

廃船の料理人


 その廃船に料理人のような白い前掛けとゴム長靴を履いた青年が近づいている。魚の切り身と粥をまぜたようなものを盛ったペット用のエサ皿を船まで運んで、甲板に置いた。そしてエサ皿の前でちっちと舌をならして手招きした。船室の暗がりに星のようなものが複数、一瞬だけ光った。
「あそこに何かいるの?」
 結局、船室からはなにも出てこなかった。青年はなれた失望を転がすようつま先をたてて、こんこんと鳴らした。わたしたちは店に戻る青年の後をついていった。のれんのへりに、今度は小さな猫が鉄棒みたいにぶらさがっていた。
「また降りられないのか」
 青年は笑いながら子猫を助け抱えた。潮くさい逆立ち毛のと違いだいぶ人間になれているようで、青年に向けてまるで犬のように尾をばたばたとふり、甘えたような声で鳴いていた。明るい茶と白の三毛猫で、雑種のようだがどこか野卑たかわいげがあった。
 紺色のくすんだのれんは今日もとりあえず潮風に揺れており、おかげでわたしたちは、その店でようやく、食事にありつけることになった。
「はい、あーん」
 と、はんなが甘ったるい気色の悪い声で、湯気のたつミルク粥を山盛りにしたスプーンをわたしに差し出してきた。もう長い付き合いなのだから、さすがに猫舌という言葉ぐらいは知っているだろう、わたしは顔を背けた。席を立たなかったのは、飼い主へのせめてもの義理立てだった。
 さっきまで青年が三毛の子猫にやっていたエサやりをまねしているらしいが、わたしはあそこまで人間に従順ではない。はんなのスプーンを空中でむなしく漂わせるかたわらで、わたしは提供された切り身に歯形をつけた。
「そろそろ帰らないとなあ、明日から仕事もはじまるし」
 はんなが嘆息交じりにそういうと、青年の目の色が一瞬、不思議な光を放つように変わった。
「いかなくていいですよ、会社なんて。会社の都合に人間が犠牲になるなんてくだらない。ほんとに、携帯電話を踏み潰して、布団に包まっていればいいんです。反対方向の電車に乗ればいいんです」
 そう語る青年は数年前まで都心で会社員をしていたが、退職して帰省、つい最近まで家業を手伝っていたらしい。最近まで、というのは家業はすでに休業し、店も近々閉店するためである。この店の土地もマンション建設が予定されていて、青年とその家族はすでに完成したマンションに居を移していた。
「こう、ぱっと何もなくなったな、という気分になるんですよ。でもだからといって戻りたくはない。今でも会社のことを考えると吐き気がするし手が震える。そのぽっかりあいた穴に埋めるものがいっさいなくて、埋めるものがなにかさえわからなくなる。そのとき気づいたんです。ああ、いろいろ大事なものを、奪われてしまってたんだな、と」
 元会社員の青年とはんなは会社の話でしばらく盛り上がっていたが、わたしの気にかかっているのはそんなことより、この町にいる野良猫の数だった。人間に見つからないよう身を潜めていたが、駅からここまであの逆立ち毛を筆頭に十数匹は気配を感じていた。

スーツの男の企み


 わたしははんなに気づかれぬよう、魚の切り身をひとつ銜えながら、そっと外に出て廃船のほうに戻っていった。
 廃船の甲板に背広姿の男性がいる。年のころは店の青年と同年代のようで、片手に使い古した皮カバンをさげ、もう片手にはエサ皿があった。青年と同じように甲板に皿をおいて、ちっちと手招きしながら舌を鳴らしていた。
 船室からは何も出てこなかったが、息遣いやかすかな物音など、生物がいる気配はたしかにあった。わたしがエサ皿に鼻を近づけようとすると、男がひょいと皿をあげた。
「お前のじゃないだろ」
 ねっとりとした泥を流し込んだような生気のない瞳は、何か後ろめたいことを隠しているようにも見えたし、その泥を必要悪として、胸を張ってすすっているようにも見えた。
 わたしは銜えてきた魚を船室の入り口付近に投げ、ひとつ鳴いた。
 自分らしくもなく挑発的であり、扇情的な声の調子なのは、中にいるやつに心当たりがあったゆえである。その無礼な態度には、温厚なわたしにも腹にすえかねるものがあった。
 さっき会った体躯の大きい逆立ち毛の猫がのそりと、いやに緩慢な挙止で暗がりから出てきた。お互い猫である。臭いが届く距離ならば暗闇だろうが物陰だろうが存在は認識できる。その固い毛並みと巨体、鋭い目つきは、同胞のみならず人間にも、ある種の威圧感を与えているのだろう。
 逆立ち毛はわたしをひとにらみすると、魚に鼻を近づけた。そしてやや迷いをみせたが、魚を銜えて船室に入っていった。ふりかえりざま、鼻をならしながらわたしを一瞥した。彼なりの礼のようだった。
「ま、お前はかしこそうだし、あいつらは人間をうらんでるから、こんなもの食うわけないよな」
 スーツ姿の男はわたしたちの一連のやりとりをみて、苦笑しながらそう言った。わたしにはこれまでの街の様子から、人間と同胞の対立の構造が、なんとなく想像できた。男は猫に慣れているようで、わたしを抱きかかえながら、何か罪を逃れるようにぽつぽつと語り始めた。
 ある程度わたしの推測も入っているが実情はこうである。マンションの大半はペット禁止、あるいは猫の場合は雑種や去勢してないのは禁止というのはよくある話である。この街でもたぶんに漏れず、土地家屋を手放してマンションに移住する地元住人の大半は、飼い猫を手放さざるを得なくなった。鳴き声や美観を損ねるという理由で、本格的な分譲を前に、街は野良猫の一斉駆除を計画していた。結果、急速に増えた野良猫たちは行き場をなくし、追い詰められるようこの廃船に集まっていた。もともとこの漁師町では、漁師道具である網を破るねずみをとるために、猫を飼う習慣が昔からあったらしい。

毒入りの餌


 象がじゃがいもを食べなかった話ではないが、猫にもそのくらいの芸当は可能である。つまりこのエサには毒か睡眠薬あたりがしこまれている、ということだ。
 自らの都合のため動物に手をかける人間の身勝手さ、非道さなど、いまさらことさらにいうまでもない。おそらく逆立ち毛も幾多の人間への失望で怒りに毛を逆立たせ、絶望に身を肥えらせたのだろう。
「故郷で家族が生きていくためとはいえ、きっといつか、ばちがあたるんだろう」
 力なくそう言った彼の瞳は一瞬だけ、雲間に差す細い光のように、澄んだ色を見せていた。
 最初に猫を虐げたものは猫族にとって史上最大の罪人であるが、最期に猫を愛でた者にはなんの感慨もわくことはない。ここには罪人しかいなかった。偽善者の偽と悪と、偽悪者の偽と悪をまとめて災厄袋にほおりこみ、ただ潮風に揺られるまま、散らせて、海に流していく。スーツ男はえさをぐっとわしづかみにし、においをかぐよう鼻に近づけた。人間には薬の臭いなどわからないはずだった。
 ふとスーツ男は立ち上がり、船室のほうを伺うように見た。そしてこう言った。
「中に人がいるのか」
 わたしは首を振った。人間の気配は船室内を含めて周囲にはなかった。それでも男はいぶかしむように、船室に近づいて行った。
「うちの船はもう誰も使ってないはずなんだが、それにしても臭うな」
 鼻をつんざくとか、刺激臭とかそういう類のものではなく、ただ有機的で不快なだけの臭いといったところだろうか。男が船室に入ると、直後に物音がした。中にいる猫たちが人間の侵入に反応して、物陰に身を潜めた音だった。
 男は船室を熟知しているようで、慣れた手つきで棚から懐中電灯をとりだし、室内を照らした。奥のほうには遠洋漁の際に使っていた寝室がある。そのベッドの上で二匹の猫が抱き合って腰を振っていた。男はあきれたように、雄猫のえりくびをつかみ上げた。
「兄貴は昔からちっともかわらない」
 料理人の青年とこのスーツ男が兄弟であることは、船への慣れた様子とこの言葉で、だいたい検討がついた。

海辺の兄弟


 船室から出た男はその後、何度か電話をしたり、パソコンを見たりなど休日ながら忙しそうに仕事をしていた。古びた店で野卑た料理を作りながら、ゆっくり猫と食事をする兄とは対照的だが、わたしはこの兄弟の間に共通する空虚さをそこはかとなく感じていた。
 心に円を描き、その中心に何もないと感じたとき、人間はただ失望するが、自身の行動の、踏み出す足の、伸ばす手のすべてが深淵にいたる道であることに気づいている者は少ない。心は常に空であり、空ではない。兄弟にしてもはんなにしても、そのことに気づいていないようだ。はんなの悩みはこのモデルケースのような両者のどちらを選択するかということだろうが、それ自体が実は愚問だった。
 毒入りの食事は甲板でむなしく波の飛沫をかぶっていた。男は腰をおろし、あぐらの上でパソコンを開いた。わたしは気まぐれに跳躍した。飛翔し、滑空した。大の字に広げた体が日輪を覆い、空と雲に重なり、男の視界からパソコンをさえぎった。キーボード上に着地したわたしは顔をつんとすまし、優雅さと躍動感を殊更に表現してみた。
「うちの猫みたいなことするな。よく見たら似てるよ、ふてぶてしさとか、クールな感じがさ」
 男の大事な仕事は中断されたが、それほど不機嫌な様子はなかった。わたしは人間の仕事というものを、この行動によって支配下に置き、あまつさえ破壊しようとした。
「もう実家じゃ飼えなくなるから、迎えにきたんだ。ペットOKのマンションに引越したし。あんまり大きな声じゃ言えないけどな、うちのだけっていうのも」
 はじめは寡黙で気難しい印象だったが、(無許可に)わたしの頭を撫で始めてから、とたんに口が軽くなった。今度は頭上に乗ってやった。男は苦笑しながらも、わたしが落ちないように片手で支えながら、片手で器用にキーボードを打っていた。わたしは下等動物らしく、足下に敷くことによって人間を支配下に置こうとした。男は猫への愛情から、甘んじてそれを受け入れるような様子さえ見せていたが、わたし、すなわち猫というものが彼にとっての郷愁の象徴であるなら、その支配下に入るということは、彼が都会へ出ながらも故郷への憧憬をいまだ抱いているということでもあった。
 空であって空ではない。心はただ故郷の奴隷である。頭上のわたしは背筋を、尾をぴんと伸ばし、両の前足をしっかりと閉じ、額から前足のつま先まで、左右対称となるよう屹立した。こうやって心円を描くと、不思議なことに、なくなった前足が元に戻ったような感覚になった。
「お前は」
 男はふと首をあげた。わたしはそのまま男の額に居を移し、腰を下ろした。男にはわたしの美しい股間とでん部とを目の当たりにする機会が与えられたわけだが、それはともかく、わたしは彼らが出てくるのを待つことにした。夕方まではそれほど長くはない。この野良猫たちの末路は、そのままわたしの末路にもなりうるはずだった。

猫たちの日課


 夕方、猫たちは船室から出て、めいめい海岸へと向かった。もの珍しがった人間が近くに寄っても、逃げることも、警戒する様子もなかった。人間など相手にするまでもないといったような威厳さえ感じられた。
 だんだんと黒ずんでいく赤い光がさっと砂浜に敷かれ、べったりとした重さを含ませている。わたしはこの砂に足をとられる感覚が、粘液をまとう蔦のようだと思った。手も、体も、声も、意思も、やがて蔦はすべてに巻きついていくような気がした。この場にいるわたし以外はどうなのか。同じような閉塞感を覚えてるのか。この場に集っているのは愚かな人間とか弱い猫だけなのだから、きっとみなわたしと同じだろう。
 むこうからはんなと兄がやってくる。はんなとわたし、兄と弟の声が交差し、野良猫たちの鳴き声と、波音が交差し、重なり、うねり、やがて光の重みにつぶされて沈んでいく。人間が話しても、わたしたちが鳴いても、どうせ誰も聞いていないだろう。砂浜に人間と同胞たちの意志の残骸がどすどすと堕ちていくようだった。

兄弟の抱えた闇と真実


 おそらくはんなとわたしを探しに来たのであろう兄は、波打ち際に整列した猫を指してこういった。
「いや、これは違うんだ。もうちょっと待ってくれ。今日はかならず!」
「もういいよ、兄貴。オレが間違ったてた、もうこんなことはやめよう。金は普通にはらうから」
「このくらいのことはオレにも出来る。オレだって…」
 兄の脳裏に浮かんでいるのは、小さな片田舎から出て都心でがんばって働いている弟への嫉妬だった。弟の脳裏に浮かぶのは、故郷で自由気ままに、昔からの友人や家族、恋人たちと楽しそうに笑いながら生きている兄の姿だった。
 兄が三毛の子猫を抱いている。あのときエサをあげてからずっと寝ているが、それにしても、寝息も聞こえないほど異様な静かさだった。
「あいつらなぜか食わねーんだよ、無味無臭の薬のはずなのに、今ももわけわかんねーことしてるし。こいつはバカだからこのざまだけど、もうすこし時間をくれ。いざとなれば力ずくで」
「ぬこ~、のらちゃんたち~だいじょうぶ~?エサもらってもぺっしなきゃめえだよ」
 間延びしたようなはんなの声はひときわ軽やかにわたしの元へ届いた。まさか兄が自分で薬のことを口にするわけはないが、はんなもなんとくなく事態を察しているようだった。
 はんなは事実を知っても思いのほか冷静だった。まるで騒ぎ立てれば、わたしの冷笑を買うことを知っていたかのように。騒ぎ立てても、現実を変えることなど出来ないと気づいているように。
「そりゃそうだよね、店もやめちゃってるなら、お金いるよね。猫なんて飼ってる余裕ないよね」
 野良たちに同情するか、人間を憎悪するか。かわいそうという言葉がとても高いところから放たれ、跳弾のようにあちこちはねかえり、彼女の胸を撃った。
 暖かい部屋で肥えた体をゆらしながら湯気立つスープを飲む人間が、頭に雪を載せながら空腹と飢えをしのぐ猫をみてかわいそうと言おうものなら、その瞬間、猫は人間の喉笛に爪をたてるだろう。はんなはかわいそうという言葉を使うことをやめていた。つらいという言葉を使うことをやめた。楽しいという言葉を忘れている自分を幸福に思った。
「わたしが働いて、エサを買って、毒をもって、ぬこを殺したようなもんだ」
 はんなの吐き出されたような言葉もまた鈍色となった砂浜にどすんと堕ちた。
 人間は言語をつくった。犬は遠吠えし、猫はか細く鳴いた。わたしは言語という意思伝達ツールを過信する人間を普段は冷笑しているのだが、このときばかりはその未熟さをもどかしく思った。我々から見れば、兄弟もはんなもたしかに同じく人間という言葉でひとくくりにできるのだが、彼女は我々にとっての残酷で身勝手な人間という象徴に、結果としてなりつつあった。
 はんなは会社のつらさと、かつて見た無残なわたしを見比べていたのだ。どちらが苦しいのか、どちらの息が荒いのか、どちらが、ひどい顔をしていたか。波間に消えた白の一点に両者を描きながら。
 兄は自分のために仕事をやめ、猫を殺した。弟は家族のために仕事をして、猫を殺そうとした。どちらを賞賛も非難も出来ず、二人の男が彼女の中で急速に空虚な存在となり、後には波間にりんとした佇まいで並ぶ猫だけが残った。
「ぬこ」
「にゃあ」
 はんなが呼ぶのと、わたしが鳴くのとがほぼ同時だった。この場所に集った行き場のない悲憤を、わたしには表現できなかった。伝えることも満足でないのがもどかしかった。猫はどれだけ人間にひどく扱われても、その生き方を変えることはない。砂浜に堂々と、しかしどこか寂しく整列した猫たちは、その象徴だった。
「一匹、いなくなって。また、一匹」

波間に集う猫たち


 波はいつの間にか引いていた。整列した猫のうち、逆立ち毛ら数匹は海岸線を睥睨するよう、首をぐるりとまわし、干上がった海底を前足でかきだした。他の猫は波が打ち上げた海草やらごみなどを拾って一箇所にまとめだした。わたしとはんなも野良猫たちを手伝っていたが、兄弟は猫にまじって一人いるはんなを不信そうに見ていた。これは何も異質なことではなかった。わたしが伝え、はんなが受け取った。ただそれだけのことだった。
「これ、あの子と同じ」
 探し物を人間が見つけたのは、野良たちにとっては皮肉だったのかもしれない。はんなが拾ったピンク色をした猫の首輪はたしかに、あの三毛の子がつけていたのと、同じ種類のものだった。
「一匹ずつ捨てようと思ったんだ。最初は弟になついていたやつを。どうせめったに帰ってこないから…」
 首輪には濡れた毛のようなものがべったりとついていた。猫たちはそれを確認すると、振り返り、ゆっくりと歩みをすすめた。そして兄弟の前で足を止めた。
 日はすでに沈み、地を這うような闇が周囲に満ちていた。猫たちは夜に備えて目に光を灯した。夕日の赤、月の青、白光を吸ったその目は、もはや鳴き声ひとつ発することもないが、兄弟たちに声高に語りかけていた。
 兄はすがるように弟を見た。弟はまだ飼い猫の顛末に動揺を抑えられないようだった。砂浜に兄弟と三毛の子の影がにゅっと伸びた。逆立ち毛は眠った三毛の子の襟首をくわえて、ふっと闇に消えた。他の猫たちもいつの間にか姿を消していた。
 古びた電燈が停泊する船と海岸を照らしている。三角の傘をかぶった裸電球である。漁がさかんに行われていたころの名残で、漁師たちはこのじじじと焦げ臭い電燈のもとで漁の準備をしてきたが、これも役目を終えて、近いうちに鑑賞用として建て直されるらしい。その光に兄弟のぼうぜんとした顔がうかびあがっていた。
「波にさらわれた仲間を探してたのか。それがあの兄弟が飼っていたもう一匹の猫…。それと三毛ちゃんを迎えに来たってことかな?」
 仲間を探していたのか、あるいはその死を知っていながら、喪に服していたのか。はんなの問いに、わたしは申し訳ないが答えるつもりはなかった。町にはこの日から野良猫がいなくなった。
 兄が住む新築マンションの一階ではペットショップが明日よりオープンするらしい。毛のもさもさとした白猫がショーウィンドウに運び込まれていた。
 人間に飼われるのが幸福でも、野良になるのが不幸でもない。しかし、だからと言って我々を虐げることを人間がよしとするのなら、わたしはそれを許すことは出来ない。勝ち目などないだろうが。人間にとっては無残に敗れたわたしの亡骸を踏みつけながら、毒を盛ることなど容易なのだろう。
「つかれたよ。明日も仕事だ」
 終電車に揺られるはんなは、わたしをもうバックに隠すこともなく、膝に抱えながら眠りについていた。あの後、海岸の掃除をはじめた弟を手伝っていたため、だいぶ疲れているようだった。彼らなりの猫への償いのつもりなのだろうか。わたしの冷笑は車窓に流れ消えて、どこにも届くことはなかった。わたしの亡骸に根を這わせて、一輪のとても美しい花が咲いた。

#創作大賞2023

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?