見出し画像

『執念第一』#毎週ショートショートnote


東京の、よくある高架下に〈オシアンの男〉というのがいる。なんでもこの男はボロ布のような服を着て、長い口髭の隙間から毎日ひたすらオシアンの詩をつぶやいているらしい。
私がそこを通りかかったのはただの偶然で、男に近寄っていったのジャーナリストの母の血だろうか。

「なぜひたすらオシアンを唄うの。」
汚い老人にどうしても嫌悪感をぬぐえず、ぶっきらぼうに聞く。

「お前は、オシアンを知っているのか。オシアンをロッテと唄ったウェッテルを知るか。」

「ゲーテの?」
尋ねると、男がひげを揺らして首を縦に振る。

「なぜそこまでしてオシアンに執着するの?」
そう聞くと、男が顔をこちらに向けた。この時初めて男と、本当の意味で目が合った気がした。

「お前たちは執念や固執を棄てた世代。それはそれは遠い昔を生きた私たちの先祖は、嫉妬や羨望が世の常だった。固執すること、何かに執念を燃やすことが普通だった。」

男が一度そこで話を区切って、乾いた唇をなめる。

「いつしかその嫉妬や羨望は悲しい出来事のきっかけになることが多くなって、ある時、人間は比較を一切捨てたんだ。比較を棄て、誰かをうらやむ心も捨てた。そうしておのずと何かに執着する必要も消えてしまって、世界全体に執着も何もない、ただ日々を生きる人間だけが残っていったんだ。当時こそ、それを美としていたが、じきに世界が活動を停止し始めた。執着をなくすというのは、人間の原動力を削られたようなものだからな。
そうしたら、次は政府が勝手に、人間から抜け落ちた執念の感情を生むDNAを、それが開発された年に生まれた赤ん坊に埋め込んだのさ。」

そんな話は生まれてこのかた、一度たりとも聞いたことがないし、歴史の教科書にすら載っていない。
私はこの男に騙されて、ほら話を聞かされているのだ。興が冷めて男の前から立ち去ろうとすると、

「執念第一世代、」

男がこれまでにないほど低く、くぐもった声でつぶやいた。憎しみを込めてそう呟いた男の強烈な感情の波にあらがえず、結局また足を止める。

「これがその赤ん坊たちにつけられた名前だよ。活動停止した世界にまた火を灯す、そういう大きな期待を背負って生を祝福された子供たち。赤ん坊たちは大切に大切に教育され、賢いおとなになった。
世界を革新する使命に心を燃やし、胸を焦がした。
彼らは結果的に様々な技術や制度をこの世に残していったよ。君が今着ている服や、乗ってきた全自動の乗り物もね。
だが、執念は良くも悪くも人を突き動かす強い感情だ。執念を抱いて生まれてきたおとなたちは、自分の境遇に苦悩することが多くなって、ほとんどが自死を選択した。あるいは狂った。心を燃やす執念は結局そのすべてを焼き尽くしてしまったんだよ。
こうして政府は技術や制度革新といううまい汁だけ吸って、よくもわからないDNAを人体に埋め込んだ人権侵害の過去はうやむやにした。そういうわけだよ。」

「あなたはその世代の生き残りなのね。」
「ああ、そうだとも。いや、執念と恨みとだけが残った人間の燃えカスだよ。」

「それでなぜオシアンを唄うの。」
「ウェッテルが好きだから。彼の執念を愛しているのさ、」

「あなたはゲーテかウェッテルに執着していた人なの?」

男の話が私の蛇口をひねったのか、疑問が流れ出てくる。
なぜゲーテなのか。なぜあなたは死を選択しなかったのか。なぜここにいるにか。なぜ…

「私が執着しているはゲーテでも、ウェッテルでもなくて、ほら話かもしれないよ。」

男の黄ばんだ歯が顔を出す。長い口髭の間で、にぃと伸びた唇の皮が裂けるのを見た。



 
暗めな話をしたいわけじゃないのに勝手に筆がそう進むのは私の黒い部分の表出なのでしょうか…最近の軽い悩みです。時間ができたらほっこり小説にチャレンジします!
【年末までにフォロワーさん50人】も目指しているので、こういいう仄暗い小説がお好きな方、今後のほっこり小説に希望的観測してくださる方、フォローをよろしくお願いいたします!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?