『マザー・スノー』龍の涙。
『ドシーーーーーーーン!!!!』190センチ近い、筋肉質な男が尻餅をついたのだ。
ブタゴリラが先ほど投げ倒された時も、もののけ姫の乙事主が獅子神に命を吸われて倒れ込んだような音を上げのだが、それを上回る程の爆振音を出し、築30年のアパートが僅かに揺れた。
若くして人生の酸いも甘いも、嚙み分けている龍ではあったのだが、オカルトや心霊現象という類いなんかには、実はめっぽう弱い。恐る恐る、という言葉には似合わないデッカイ図体で、彼は奥の部屋の方に視線を向ける。
(・・・なんか、いる・・・!!)
その『なんか』は、薄っすら透けていた。
そしてそれは若い女のようだった。
黒髪のミディアムヘアを雑に束ねたヘアスタイルに、クタクタの灰色のトレーナーを着ている。
紺色のジャージズボンを履いていて、そのジャージの右上に小さく文字が刺繍されていた。
「・・・田村・・・。」
目を細めて、龍はそのジャージの刺繍文字を読み上げた。苗字だった。
「なに?田村は私やけど。」
どう見ても『霊』という感じのその女は、あっけらかんとした態度でそう言った。
そしてスタスタと、龍がいる台所の方に近寄ってきた。龍は咄嗟に後ずさりする。
女は黙ってしげしげと、ぶっ倒れたブタゴリラを眺めてからこう言った。
「こいつか!こいつがアデルの言うてた、例のボケナススカタン野郎か!
なんじゃこの、コーディネートは!
あ~・・・。あれや!さてはこいつ、ビジュアル系に憧れとるんやな~!!」
そして腹を抱えて笑い出した。なんとなく、その豪快な笑いっぷりに釣られて、龍も小さく笑ってしまう。
龍が少し笑ったことに気をよくしたのか、その女は今度は、龍の目をしっかと見つめ、二ッと笑った。
決して派手な顔では無いものの、整った目鼻立ちに、長いまつ毛。
単に『霊だから』というだけではないのが分かる、雪のように透明感のある、透き通った美しく白い肌。
目立つタイプではないものの、きれいな女だった。
でも、それだけではない。
龍にとって、それはあまりにも既視感のある面立ちなのだ。
そう、それは彼自身の顔。
彼自身がまだ十代の半ば頃、華奢で色白で、中性的に見られていた、あの頃の顔。
24歳の龍の身長は、彼の遺伝子の持つポテンシャルを最大限に使って伸びきってしまい、現場仕事でこんがりと日に焼け、まさに『男らしさの極み、男らしさの権化。』という感じに仕上がってしまった。
それでも充分、美形男子なのだが。
「・・・田村、優希さんですか・・・?」
緊張のあまり喉が渇きに渇いていた龍は、ガビガビの声を振り絞って、やっとの思いでそうこの女に声を掛けた。
女は、龍の目を真っ直ぐに見つめたまま、黙って頷き、言った。
「・・・初めましてやな。あんたに会いたかったで。
『龍。』」
『龍』。この地上の誰一人として、その名を呼んでくれたことなどなかった。
『龍』。龍は、自身の遠い遠い記憶を一瞬でさかのぼる。
それは真っ暗闇でありながらも、心地よいリズムの鼓動と、狭くてもなお温かな自然の揺りかごに包まれ、浮かんでいた、あの頃。
(俺はこの声を知っている。)
「お母さん。」
龍は無意識にそうつぶやいていた。
そうつぶやいたとたん、龍の胸の内側の、何かよく説明がつかないものが、じんわりと温まっては溶けだした。
その溶けだしたものは、一度溶けだしたら止まらなくて、胸の内では収まりきらなくなった。
無表情のままの彼の目からそれは自然とあふれ出し、彼の、日に焼けて乾いた褐色の頬を、ただただ静かに濡らしていったのだ。