くるり@磔磔ライブを見て思うこと

2020年7月11日。コロナ禍の中で開催されたくるりLIVEWIREを見た。くるりのライブは過去に2回だけ。でもどちらものすごく濃かった。中野サンプラザでのライブは終始立ち上がりたくて、でも立ち上がれなくて、やっとアンコールで周りを見渡しながら恐る恐る立ちあがったのを今でも覚えている。ZeppTokyoでのライブは、空気が淀んでいるのを全身で感じながら、岸田さんの紡ぎ出す音に酔いしれた。というと、なんだかかっこつけているようで、少し痒くなる。くすぐったい。酔いしれるというよりも、酔っ払い、の方がくるりらしいかなとも思う。岸田さんの奇妙なダンスさえ、ああいいなあと思えてしまう、そんな空間を何千人もの人と共有できることは、今となっては貴重なことで、昨日のオンラインで少し寂しさを感じたのは、クーラーのかかった部屋でPCの前に立つ私が、少し滑稽に思えてしまったから。PCの向いにはガラス張りの壁があって、そこに暗闇の中くねくねしている自分が写っているのを見たとき、あ、何やってんだろ、と冷静になってしまった。ライブハウスではそういう、はっと我に返るみたいなことって無い。夢中で汗だくになりながら、手を振り続けるとか、飛び続けるとか、普段は出来ないことが音楽の力を借りて、出来てしまう。非日常と言ってしまえば、すごく簡単だけど、舞台に立っているのは他でもない同じ人間で、同じように息をしていて、汗をかいていて、何やら大きな声で叫んで、ギターをかき鳴らしながらぴょん、ぴょこ、飛び回っている。不思議だ。自分は何も知らないのに、前からその人を知っているような気になる。愛おしくて、叫ぶ。手を叩く。身体が音に合わせて揺れている。くるりのライブもそうだが、いろんな曲を聴いていて、よく全然違うことを考えることが非常に多い。曲に集中すればするほど、意識は遠のく。昔のことがゆっくりと甦る。曲のタイトルとも内容とも何の関係もないことが、頭の中にめぐる。ライブ中に、そういう瞑想?みたいな、この場にいるのにこの場にいないような、今に集中しているのに、頭はどこかへ行ってしまう、そんな不思議な感覚になる。くるりの曲で好きな曲はたくさんあって、一つに絞るなんて野暮である。しかし、その中でも特に「Morning Paper」には心を奪われるし、この曲を好きだと言う人の感性を私は信じられるな、とまで思ってしまう。転調が激しい割に、すんなりとそれを受け入れられるというか、むしろ、はい!はい!転調!待ってました!いくで!と、いう風にノリが自然と関西風になる(私は関西人ではないのでその本物のノリみたいなものは実際知らないのだが)。それと、くるりの曲を全く評価していない母を無理やり、PCの前に座らせ鑑賞したのだが、母の感想は第一声に「この人、面白いね」だった。わかってるやん!!!と、またエセ関西弁になってしまう。何が面白いのか尋ねると、母は「岸田さんの滑稽な動き」という。確かに。傍から見たら、どうかしているらしい。もはや、岸田さんのライブパフォーマンスを見慣れ過ぎて、滑稽なのかすらもう私にはわからない。ただ、初見の母からすると、岸田さんは「変わったひと」に見えたらしい。そう、変わっているから、変態だから、好きなのだ。くるりのそういう「変態性」みたいなものに、たぶん私は惹きつけられて止まないのだ。それはつまり、自分も「変態」な部分があって、くるりの曲はそれを意識させるようなものが多い。そして、そういう意識になることを、岸田さんは全く想定していないのだろうと思う。ただ、岸田さん自身が貪欲に毎回、自分の琴線に触れる、一番かっこいい音を作っているだけなんだろうな、と思う。そのオリジナリティを追求する姿にとても魅力を感じるし、いい意味で芯が無いというか、振れ幅の大きさがすごく安心する。ああ人間が作ったものだもんな、というそんな壮大な人生賛歌とも言えるかもしれない(さすがに言い過ぎ感はある)。毎回、違う顔を見せてくれるのが、ファンとしてはすごく嬉しい。

「Thaw」=解凍という意味のアルバムを最近発売した。この解凍という言葉の裏にはいろんな意味があるような気がする。単に古い曲を再生しただけではなく、熟成されたような感じもするし、電子レンジで急いで解凍したのではなく、ゆっくりと常温で湯気を立てながら溶けていく様を想像してしまう。古いものに向き合う、昔の自分と向き合うのは、とても体力のいる作業だと、個人的には思ってしまうので、こうして何曲も解凍してくれたことには純粋にリスペクトを感じる。一旦ボツになっているにも関わらず、一度は冷めてしまったものをまた温めることが、そう簡単ではないと、私は想像する。その熱量はどこから来るのか。それは私の想像に過ぎないのだが、「音楽への変わらぬ愛」だと思う。ただ、音を愛している。音楽が必要だ、生きるのに必要だから、今こんな時代こそ、音が必要で、音楽が必要なんだと思う。くるりがどんなバンドか、改めて考えると、どうやってみても「変なバンド」でどう転んでも「音楽を愛し過ぎている」ことは変わらない気がする。愛が度を越えると、魅力になる。そこに人が集まってくる。くるりのファンの方には残念ながら、リアルではお会いしたことがないが、皆何かを抱えてそれでも生きたいから、生きるのに音楽が必要だと感じているからこそ、くるりを愛するのかもしれない、と勝手に想像する。私にとっては、音楽は生きることそのものだと思っていて、それは幼少期に「サウンド・オブ・ミュージック」を観て育ったことが大きく影響している。まさに人生は「音楽」そのものだと、物心つく前から肌で何となく感じていたのか、ただ、とても楽しかったことを覚えている。少し脱線したが、自分なりに昨日のライブから、思ったことや新しいアルバムに対するリスペクトと、次回作は一体どんなものが届くのか、想像もできないが、それもまた楽しい。くるりに対する愛の深さは何だっていい。深さはいろいろあっていい。オタクでもいいし、にわかでもいい。ただ、一緒に音楽を楽しみたい。こういう曲いいよなあ、って誰かも同じように思って欲しい。知ってほしい。生産性で価値が決まるような時代遅れは、さっさと置いて、大人しくくるりを聴きなさい、と言いたくなる。そこには、価値あるものを超えて、「愛があるもの」こそが誰かを元気付けたり、前向きになれたり、はたまた、憎らしくなったり、色んな感情が渦のように押し寄せてくる体験をさせてくれるものだと。そういう渦に巻き込まれてしまって、少し落ち込むときもある。でも、それでもいいじゃないか。人間の感情なんて、天気と同じで晴れたり曇ったり、忙しい。くるりを聴くと、人間臭いなと心の底から思う。忙しい感情をゆっくりスローモーションでたどっていくと、自然と、ああそうか大したことじゃなかったなと思えたりする。そんなスロービートに乗って、自分の感情と向き合う時間が、くるりを聴く時間でもある。面白いなあ。岸田さんはどれくらい計算しているのだろうか。無意識だったとすると、かなり狂気を感じる。いや、その狂気こそが私達の求めるものだったりするんじゃないか。誰しも持つ狂気を、わかりやすい形で示してくれる(本当はわかりづらいのかもしれないが、私にとってはすごくわかるなあという印象)。それと、余談だが、母は「所ジョージの曲と似ている」と言っていて、はて、、と考えたのだが、共通するのは「変態」であるということぐらいで、母の感覚は謎のままである。それぞれの感じ方があるなあと、しみじみと感じた。

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