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独在性と善行II


 前回の記事では、永井均の〈私〉と、アーレントの「善行」の両者が、「万人のための、そして何びとのためでもない」という点で類似していることを示した。今回の記事では、両者が、それぞれを「見届ける神」という観点から異なっていることを示す。




全知全能の神に見届けられる善行


 まず、アーレントの「善行」から見てみよう。絶対的意味における善行は、この世界に現れることがない。なぜなら、他人からだけでなく、自分自身からも意識されてはいけないという性質を持つのが善行だからである。つまり、何らかの公的な記録に残っている善行、あるいは、「あの時の自分の行いはきっと善行だったに違いない」と想起される善行は、どれも絶対的意味における善行の名に値しないのだ。

 だからこそ、この善行は、世界を超越した神によってのみその存在を保証される、というのがキリスト教の発想であった。なるほど、この世界のあらゆる事象を何一つ残さずに認識できる存在者がいれば、善行を見つけ出すことも可能なはずである。「誰も覚えておらず、なんの記録にも残っていないが、本当は実在した過去」といったものを想定できるように、「他人も自分も全く認知していないが、実際にはなされた行い」を神が見届けてくれるはずだと願うことも不合理ではない。

 この場合、キリスト教的な超越神は、人間の行為を細大漏らさず把握している以上、「客観的世界の創造者であり支配者」としての地位を占めることになるだろう。こうした存在者を要請することによって、キリスト教は、「この世で行わらなくてはならないのに、この世に現れてはならない」という、善行に絶えず付きまとう深刻なパラドックスを解消することができたのである。つまり、善行を見届ける神は、「客観的世界の創造者であり支配者」という性質を持っていれば事足りるのである。



独在性は他人へ伝達できない


 では翻って、永井均の〈私〉はどうだろうか?善行と同様に〈私〉もこの世界に現れることがないのは、すでに前回の記事で確認済みである。「その目からだけ現実に世界が見えており、その体だけが現実に痛い」〈私〉は、どれだけ言葉を尽くしても、他人へ伝達することができない。

 私が自分を指さして、「この目からだけ現実に世界が見えており、この体だけが現実に痛い〈私〉がここにいる」と叫ぼうとも、「『キミロという人間にとっては』、現実に世界が見えており、現実に痛みを感じている」と理解=誤解されるのがオチである。私が「いや、『キミロという人間にとっては』などの留保抜きに、ここに、この目からだけ現実に世界が見えており、この体だけが現実に痛い〈私〉がやはりいるのだ」と懲りずに叫び続けても、永井均の言う「累進構造」が働くために、私の言葉は永遠に誤解され続ける。よって、「無数の感覚主体の中になぜかたった一つだけ突出した存在がいる」という独在性は、「『無数の感覚主体の中になぜかたった一つだけ突出した存在がいる』という事態はどの感覚主体にも当てはまり、その無数の感覚主体の全てが『無数の感覚主体の中になぜかたった一つだけ突出した存在がいる』という性質を共有しているのだ」と水平化される運命からは逃れられない。

 このように、独在性を持った〈私〉は善行のように、「忘れられ、来ては去り、何の痕跡も残さない」ものであるが、善行のように、「客観的世界の創造者であり支配者」から見届けられうることは可能であろうか?たとえこの世界の誰からも認知されなくとも、全知全能の存在者ならば、〈私〉が誰であるのかを把握できるのではないだろうか?



独在性は全知全能の神にも見届けられない


 永井均は、神でさえも〈私〉が誰であるか分からないという。

では、もっとストレートに神の存在を要請してみてはどうか。事態は少しも好転の気配を見せない。神は、結局、客観的世界の創造者にすぎないからである。神はもちろん人々の主観的なあり方を、すなわち心や意識を創造することができるであろう。だが、それだけのことにすぎない。神は、たとえば永井均という人間を創造し、その心の中のあり方を細部まですべて作り出す力があるだろうが、その人がなぜか(これまで述べてきた意味で)私であるという事実を作り出す力はない。神にできることは、彼に自己意識を与えることだけである。[……]神がその人がなぜか私であるという事実を作り出せないのは、神にはそもそも私がこの世界の中のどの人であるかを識別する能力がないからである。そもそも絶対他者である神がそれを識別するとは何をすることなのか、それが分からないからである。

永井均『存在と時間ーー哲学探求1』(文春e-book)p.26


 肉体を持ち、脳と神経が働いているといった、客観的=実質的な事実については、全知全能の神ならばその全てをお見通しであろう。しかし、これまで述べてきたように、ある一人の人間が〈私〉であり、それ以外の全ての人間は〈私〉ではないという事態は、そのような客観的=実質的な差異によるものではない。脳や神経、あるいはクオリアまでもが、その一人の人間とそれ以外の全ての人間との間で完璧に共通していようと、依然として、〈私〉と〈私〉ではないものという区別が残ってしまうのだから。

 脳や神経の働き、クオリアの有無といった問題は、「客観的世界の創造者であり支配者」である神は容易にクリアできるであろう。しかし、〈私〉が誰であるかというこの究極的な問題だけは、神でさえも解くことができない。〈私〉が誰であるかという問題が解かれるという事態が一体どんな事態であるかを、私たちが理解できないからである。自然法則を好き放題に支配できるがゆえに、「つばさを持ったライオン」をいくらでも創造できる神が、「三角形の円」といった論理法則に反する存在までも創造することはできないのと同様である。

 アーレントの善行と永井均の独在性との違いはここにある。善行は確かにこの世界に現れることができない。しかし、「誰も覚えておらず、何の記録にも残っていないが、本当は実在した過去」を少なくとも私たちが想定することができるように、善行は「客観的世界の創造者であり支配者」である神からその存在を保証される可能性は残されている。善行が公共空間に現れる可能性はゼロだが、客観的世界に実在することはできる。しかし、独在性を持った〈私〉は、公共空間にはおろか、客観的世界にも存在できない。他人も、「客観的世界の創造者であり支配者」である神も、それを見つけ出してはくれないからだ。善行の存在を保証することに成功した信仰も、独在性を捉えようとする段になると、その無力を露呈せざるをえない。



「つばさを持ったライオン」ではなく、「三角形の円」を


 しかし、と私は問いたい。そもそも「客観的世界の創造者であり支配者」である神への信仰など信仰の名に値するのか、と。全知全能の神は確かに私たちの理解を超えている。それは自然法則を支配し、あらゆる事象に通じているというのだから。全知全能の神を見つけ出せないのは、それが存在しないからではなく、私たちの能力がまだそれに見合っていないからなのかもしれない。全知全能の神への信仰は原理的に科学的アプローチによって否定できない。あらゆる科学的知見を総動員しても、それによって把握できないほど超越した存在こそが神であると言われたらそれまでであるからだ。

 だが、私たちの理解を超えているのではなく、私たちの理解に「反して」いる神ではなぜいけないのか。それは、つまり、論理法則に反した行いをする神である。当然そのような神は「絶対に」存在しない。科学的な知見が今後どれだけ増えていこうと、それに関わらず、論理法則を無視する神など未来永劫存在するはずがない。しかし、そうした「存在するはずのない」神への信仰こそ真の信仰とも言えるのではないか。いるかもしれない存在をいるはずだと信じる通常の意味での信仰ではなく、絶対にいないという確信のもと、なおかつそうした存在がいることを願うという矛盾した態度こそ、絶対的意味における信仰なのではないだろうか。もちろんその神は、私が〈私〉であることを知っている神であることは言うまでもない。

 善行も同様である。「客観的世界の創造者であり支配者」によってその存在が保証されている善行ですら、「本当の」絶対的意味における善行には程遠い、と私たちは言うべきではないだろうか。他人にも自分にも、さらには全知全能の神にも、あずかり知らない善行。公共空間にも客観的世界にも記録されることのない善行。もちろんそんなものが存在できるはずがない。それがこの「本当の」絶対的意味における善行の定義なのだから。しかし、絶対に存在しないにも関わらず、しかし存在するはずだ、存在していてほしいという願いを背負った善行。そうでなくて善行とは何であろうか。イエスは、「施しを人々の前で与えて人々に見られることのないよう、気をつけなさい」と説いた。私たちはイエスと共にイエスに反して、こう戒めるべきである。「施しを神の前で与えて神に見られることのないよう、気をつけなさい」と。

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