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独在性と善行Ⅰ


 『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭に、ニーチェは次の一節を掲げた。

万人のための、そして何びとのためでもない一冊の書

ニーチェ『ツァラトゥストラ 上』吉沢伝三郎訳, 2017年10月, ちくま学芸文庫,p.7


 「万人のための、そして何びとのためでもない」?私のこの書は全ての世代にわたって破格に重要なものとなるが、ごく一握りの選ばれた人間にしかその真意を理解できない、とでも言いたいのだろうか。

 いや、それだったら、「選ばれたごく少数の者たちへの一冊の書」と書けばよいではないか。なぜ、万人に関わりながら同時に誰にも、ひょっとすると著者であるニーチェにも無関係であるなどと書いたのだろうか。だいたい「万人に関わりながら、誰とも関わらない」ものなど矛盾しているではないか。そんな矛盾したものがこの世界に存在するわけがないではないか。

 しかし、その矛盾したものが、少なくとも二つは存在するのである。一つ目は、永井均の唱えた「独在性」という性質を持った〈私〉であり、二つ目は、アーレントが解するような「善行」である。




「独在性」を備えた〈私〉


 永井均の唱える、「独在性」を備えた〈私〉とは次のようなものである。

 私は今この文章を自分の部屋のパソコンで書いている。目の前にはパソコンの明るい画面が見え、私の指はなめらかなキーボードの手触りを感じている。

 ここで私はふと疑問を感じる。今、この瞬間、つまり、2024年7月17日0時22分に、パソコンに向かってキーボードを打っている人間など、日本中、あるいは世界中を探せばいくらでもいるだろう。しかし、現実のこのパソコンの画面の明るさ、現実のこのなめらかなキーの手触りを感じているののは私だけであるのはなぜだろうか?


なぜ「この」私だけが、「現実」に何かを感じるのか

 上に対して次のような反論が考えられる。お前は何を言っているのだと。日本中あるいは世界中に数多くいるそれぞれの人間にとっては、現実のパソコンの画面の明るさをと現実のなめらかなキーの手触りを、実際に感じられているのだ。お前もそうした無数の人間のうちの一人に過ぎないのだ、と。

 私は、さらにこう続ける。いや、その人たちも「その人たちにとっての」現実のパソコンの画面の明るさを、「その人たちにとっての」現実の滑らかなキーの手触りを感じているであろうことは私も認める。しかし、私が腑に落ちないのは、「その人にとっては」現実のパソコンの画面の明るさを、「その人にとっては」現実の滑らかなキーの手触りを感じている無数の感覚主体がこの世界にいるにも関わらず、どうして、「この」、いわば剝き出しの「この」私だけが、現実のパソコンの画面の明るさと現実の滑らかなキーの手触りを感じているのだ?という点なのである。

 画面の明るいパソコンが目の前にあり、滑らかなキーボードに両手が置かれているといった、環境や物質的な条件は誰もが共通しているはずなのに、それら無数の人々の「現実の」感覚は感じることが出来ず、なぜかこの一つの、唯一の「私」だけが、「現実に」パソコンの明るさとキーボードの滑らかさを感じることができる。これは一体なぜなのだ?

永井均が言うように、この問題に対して、「それは彼らの脳とお前の神経が繋がっていないからだ」と答えることはできない。パソコンの画面を見ている時に活性化する脳神経Aと、滑らかなキーボードを触っている時に活性化する脳神経Bが脳内に存在するとき、「今自分は現実にパソコンの明るさと、キーボードの滑らかさを感じているなあ」という意識が脳内に生まると仮定しよう。

 そうならば、その意識は、画面の明るいパソコンが目の前にあり、滑らかなキーボードに両手が置かれているといった、環境や物質的な条件、脳と神経の構造が同じである感覚主体全ての脳内に発生するはずだ。実際、それらの無数の感覚主体の全員にインタビューをすれば、全員が、「はい、私は今、現実のパソコンの画面の明るさと現実の滑らかなキーボードの手触りを感じています」と答えるだろう。しかし、その無数の感覚主体の中に、なぜか、「本当に」「現実に」パソコンの画面の明るさと滑らかなキーの手触りを感じている、「私」という訳の分らない唯一の存在があるのだ。この訳の分らない不気味な存在者を、永井均は〈私〉と表記する。〈私〉は、他の存在者から根本的に隔絶しているという、「独在性」を備えている。


「独在性」は客観的には実在しない

 この「独在性」を備えた〈私〉という存在が、「かけがいのない一人一人の存在」などといったものと無関係であることは明らかである。なぜなら、他の存在者から根本的に隔絶している〈私〉は、客観的世界には存在しないからである。

 私は上に、「その無数の感覚主体の中に、なぜか、『本当に』『現実に』パソコンの画面の明るさと滑らかなキーボードの手触りを感じている、『私』という訳の分らない唯一の存在があるのだ。」と書いた。しかし、この文章を読んでその内容を理解した読者も、私の言っていることは否定せざるをえないだろう。なぜなら読者はこの文章を、「キミロという人間にとっては」、『本当に』『現実に』パソコンの画面の明るさと滑らかなキーの手触りが感じられているのだろうなと、理解するしかないからだ。いや、「キミロという人間にとっては」などといった留保抜きに、「本当に」「現実に」、パソコンの画面の明るさと滑らかなキーの手触りをこの〈私〉だけが感じているのだ、というのが私の文章の趣旨であったにも関わらず。私が永井均の独在性の説明を本で読んでも、なるほど、「永井均という一人の人間にとっては」、「本当に」「現実」に痛みや味が感じられているのだろうな、と理解(誤解)するしかなかったように。

 独在性を備えた〈私〉は客観的世界に存在することはできない。それが他者へ伝達されたとき、必然的に誤解されざるをえないからである。「現実のパソコンの画面の明るさと、現実の滑らかなキーボードの手触りを今感じている」感覚主体などこの世界には無数に存在するだろう。独在性を備えた〈私〉はそれらのone of themとして理解されざるを得ない。一方では、誰もが独在性という性質に関わることができるのに、他方では、独在性は誰にも関わらない。よって、〈私〉が備えている独在性という性質は、「万人のための、そして何びとのためでもない」のである。


アーレントの「善行」


 次に、アーレントの『活動的生』における「善行」に関する議論を見てみよう。

 アーレントによると、西洋史上初めて善意の活動を人々に教えたのは、イエスであった。イエスの登場と後のキリスト教の成立によって、卓越し傑出しているという意味でもなく、有用であるという意味でもない、絶対的意味における善というものが生まれるようになった。


この世で行わらなくてはならないのに、この世に現れてはならない

 しかし、この絶対的意味での善には、深刻なパラドックスが付きまとう。善意の活動は、それが活動である以上、かならず現実の世界において他人に対してなされるものでなければいけない。しかし同時に、この活動は「人びとに見られ聞かれることから隠されたまま保たれようとする傾向を、明白に示す」。なぜなら、公共的な世界で注目を集めたり、その善行を自分で意識したりすれば、善行はもはや善行ではなくなってしまうからである。

 善意は、見られ注目されることには耐えられないのであり、それは、相手が見る場合でも、善行をなす人自身が見る場合でも、そうである。意識して善行をなす人は、もはや善人ではない。役に立つ社会の一員、もしくは自分の義務を弁えている教会員になら、立派になれるのだろうが。だからイエスは言った、「あなたの右手が何をしたかを、左手に知らせてはならない」と。

ハンナ・アーレント『活動的生』森一郎訳 2015年6月 p.91-92


 他人に気づかれていけないだけでなく、自分でもその行為を即座に忘れなければいけない、そのような性質の行為。アーレントが、イエスの教えに読みとった善行は、どこまでも「非世界性」を備えた行いだった。


「見捨てたれた状態」としての善行

 よって、善行は「世界の構成部分」を形作ることはない。それは、忘れられ、来ては去り、何の痕跡も残さないという点で、「この世のものではない」のである。俗世を離れて一人で思考を巡らす哲学者ですら、自分自身という対話相手を持つのに対して、善行をなそうとする人間には、自分自身との対話も禁じられている。善行は想い出されてしまったら、もはや善行ではないからである。

 さらに、アーレントによると善行は「少数者」の経験ではない。善行という、いわば「見棄てられた状態」(Verlassenheit) は、原理的にどんな人間にも降りかかり得るのである。しかし、他人にも自分にも見られ聞かれてはいけないという性質上、善行が公共空間に現れることは決してない。キリスト教が、人間の善行を唯一見届けてくれる相手として、神の存在を要請したのはこのためであった。神のような存在を想定しない限り、善行は「万人のための、そして何びとのためでもない」ものにとどまるからである。

 永井均が唱えた「独在性」を備えた〈私〉とアーレントが唱えた絶対的意味での善行の二つが、「万人に関わりながら、誰とも関わらない」ものであることが分かった。しかし、この両者の間に類似点を指摘できるのはここまでである。次回は、両者の違いを、「見届ける神」という観点から考察する。

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