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主語は誰か

おはようございます。
再開して早速ですが、お菓子の話ではないです。すみません。

この数週間、これまで経験したことのないことがありました。
落ち着いたら、同じ悩みを抱えるかもしれない未来の誰かに、未来の私に向けて、書こうと思います。出だしから重い雰囲気ですみません!!

この数日に起きた様々なこと。
今まで遠くの誰か、1%の誰かの話としてぼんやり考えたり、考えなかったりしていました。いや、ほとんど考えていませんでした。でも、主語が自分になった瞬間に急に鮮明にあらゆる事象が波のように自分に流れ込んできました。

どんな物事でもその状況を経験しないと分からないことがほとんどで、経験もしないのに本当にその痛みや悩みを理解することなんてほぼ不可能なんだな、と感じたわけです。歳を重ねるほど、人それぞれの経験になるので他者の痛みが「分かる」なんて優しさと偽善。それらに救われることだってたくさんあるけれど。似たような経験を擦り合わせて分かち合う事ができても、「分かる」には到底辿り着けないものです。人生経験してなんぼ、と思っていたけど、痛みなんて分からない方が良いに決まっていると思います。

でも、皮肉にも経験したからこそ、その痛みに対しては、私は分かち合える側になった気がします。誰かの痛みをそっくりそのまま「分かる」ことは出来ないけど、自分の感じた痛みには敏感なもので、その鮮明さを持ってあらゆる背景に寄り添うことはできそうです。知っているのと体験するのとでは、あまりにも幅があります。そして「いつ」経験するのかによってもきっと痛みの幅があるように思います。逆に言えば、私が知らない痛みに対しては、私はあまりにも鈍感で、知らず知らずのうちに堂々と先陣を切って加害者になっていることもあるのだろうと思いました。全ての痛みを経験して、より多くの人の想いに寄り添うことなんて出来るはずもないし、する必要もないのだけれど、痛みを知ったからにはその痛みに対して思慮深くありたいと思いました。そして、知らない痛みに対しても知らない自分なりに理解を深めて、どんな風に手を添えることが出来るのかを考えることはできるような気がしました。

一緒に泣いて悲しまれたり憐れまれたりするよりも、「あなたの痛みは分からないけど自分のできることで寄り添う」と、私との関係性に覚悟を持って向き合ってくれた人にとても救われました。
これまで「分からないから知らんぷりする」「触れないでおく」ことを自分自身も選んできたけれど、それが一番非情であるような気がしました。自分もこれまで散々してきたのにも関わらず、です。
今回向き合ってくれた人たちは、もしかしたら、これまで違う痛みやしんどさとたくさん向き合ってきた人なのかもしれないと勝手ながら思ってしまいました。だから、人の痛みとの向き合い方も上手なのだなと。もしかしたら、思考が似てるだけの話かもしないけれど、とても救われました。

もともとわたしはゆったりとした闇属性で、「暗い部分は当たり前にあるし、その部分もおもしろおかしく好きでいたいなあ」というスタンスだったけれど、対する光があまりにも眩く純粋で澄んでいると、闇さえも漏れた光で照らされてしまい、どうか照らさないでくれ、と思ってしまいました。

「分かっちゃいるけど、全然分かってなかった。」
こんなことが山程あって、気が遠くなりそうです。
30歳間近に気が付けたけれど、似たようなことはきっとこれまでも気が付いていたはずなんです。でも、年齢と共に、似たような出来事でも感じ方の奥行きが変化していくのだとようやく知りました。

主語は誰か。
結局、自分が主語にならない限り、本当には理解できないことが山程あって。なりたい主語もなりたくない主語も、たくさんあって。「なんで自分が?」と思うようなことに出会ったとき、奥底の自分がぬっと顔を出してきて、私と言う人間が問われている気がしました。
そしてその経験の先で、どんな自分に成っていくのかは、この事実を、事実のままどれだけ受け止め切れるかにかかっているのだと思いました。


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