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人付き合いで出し惜しみしていいこと vs. 惜しみなく与えていいこと

16日間の日本出張を無事終えて、サンタクルーズに戻りました。
岡山→東京→鎌倉→大阪→福岡と、今回の帰国中は、年齢も分野も異なる約125人の方々とお会いでき、気力、体力もキープできたうえに、多くを受け取り、とても幸せな時間でした。
しかし、今までは必ずしもそうではなく、どこかに残る疲労感にもやもやしていたのです。
今回、やっと人との繋がり方を今まで誤っていたということに気づき、これからどう向き合うかの洞察を得られたので、今日はそれついて書いてみたいと思います。


幸福の基盤となる人付き合い(社会資本)

まず、最近面白いと思っている橘玲さんの、「幸福の3つの資本」。脱線してると思われるかもですが、ちょっとお付き合いください。

金融資本(資産)お金、不動産、株などの資産。これにより自由が得られる
人的資本 自らが持つ能力や才能。これにより自己実現が達せられる
社会資本 人間関係のネットワーク。これにより絆が得られる

『幸福の「資本」論』橘玲、ダイヤモンド社

3つ潤沢にあればスーパーハッピーとなるのですが、筆者は「そんな人いない」とおっしゃっているのも小気味良い。(笑)
1つあれば危うさはありながらそこそこ幸せ、2つあればかなり幸せといえるーーこれは納得感あります。
人付き合い(社会資本)は、幸福の基盤である3つの資本の1つであり、それに対してどう投資しどう恩恵を受け入れるかが、人生の豊かさや幸福感に大きく寄与するわけです。

人付き合いにまつわるモヤモヤー脅迫性GIVEに偏ってしんどくなる

しかし、私には「人に会う」つまり社会資本に投資することについて、今までもやもやしていたことがあり、そのためいつも同じ4―5人の仲間や親友以外は積極的に人に会わなかったことも多々ありました。
極めて近い人以外は「GIVE」と「TAKE」のアンバランスをどうしていいかわからなかったからです。今さら中二病かよ、という恥ずかしさが湧いておりますが(笑)、もう少し説明しましょう。

これまでは人と会う時に「せっかく会っていただいているのだから、何かをGIVEしなくてはいけない」と反射的というか脅迫的に思い込む傾向があり、その結果こんな感覚が残ったのです:
1. 正直相手からもTAKEしたいのに、ブレーキをかけてしまう
2. GIVEしなきゃ!と力が入り後で枯渇感が残る
3. どこかで上下で相手を見ている(GIVE側が上でTAKE側が下)
特に3.が自分の未熟さを見せつけられる様で恥ずかしく、とてもいやだったのです。

出し惜しみしていいこと vs.惜しみなくGIVEもTAKEもしていいこと

この長年のモヤモヤ、瞑想とジャーナリングで掘り下げたところ、今回「GIVE」と「TAKE」のアンバランスにプチブレークスルーを得ることができたのです。私がGIVEできるリソースには有限のものだけでなく、無限のものもある、という気づきです。
有限のリソースは吟味して相手を選んだり、出し惜しみもOK。有限のリソースには明確な境界を設けた上で、無限のリソースは惜しみなくGIVEしても、私が失うものはなく、また相手からもこの無限のリソースをいただけるなら、安心してそれをTAKEしても良いと気づいたのです。
有限のリソースとは、お金、時間、体力、気力といったものです。これは相当吟味して相手を選んだり、制限を設け、心身がしんどい時はお断りして、正々堂々出し惜しみしましょう。だって有限なんだもん。
無限のリソースとは、情報と人とのつながり、すなわち知っていることや人を紹介すること、それに加えてほっといてもダダ漏れする「私のそのままの在り方」です。これらはいくら人にGIVEしても私から失われることはありません。それどころか良質な情報や人間関係は、私の手を離れても増殖し続けるでしょう。
つまり、まずは有限のリソースである時間、体力、気力、お金など、そしてそれを誰に投資するかを、自分なりによく考えて制限を設けるーーそれを自分に許すこと。その上で、相手と過ごす時には、無限のリソース(情報、知り合いの紹介、ありのままの自分らしさ)についてはオープンに惜しみなく与える、というアプローチです。


より豊かで清々しいつながりから湧くコンパッション

そのことに気づいてお会いいただいた方達に向き合うとき、自分がより寛容にオープンになれていたのです。同時に、相手の方からも、自分の学びになる情報は遠慮なく吸収したり、引き出して行って良いことも実感しました。
そんなリラックスしたオープンな場では、相手の望み、苦しみや不安、そして私への気遣いや優しさもより伝わってきて、よりその方との時間を楽しむことができ、同時に自然なコンパッションが湧いてくるのです。
これまで、「何かGIVEしてあげなくては」と思いながら自分が枯渇することをどこかで恐れて、中途半端なオープンさで向き合っていたから、よけいに疲れ、特に共感疲労を感じたのだということにも気づきました。

有限のリソースであるお金、時間、体力、気力などを吟味した上で、無限のリソースを相手のためを願って選び、惜しみなく与えるーーそのように考えを整理できたら、恐れずにオープンにGIVEし、同様にTAKEすることは自然に、そして清々しくできる。

そして、社会資本=量(人数)x 質(関係性のクオリティ)といえるでしょう。
SNSなどでつながり安い時代では、量よりも質の管理のほうが重要です。
内向的な人であっても、質の高い深いつながりが少しあれば良いでしょうし、外交的な人であっても表面的なただの知り合いが多いだけでは、社会資本は貧しいといえます。
そして、その質はこれまで述べた様に有限のリソースを吟味し正々堂々出し惜しみし、無限のリソースを寛容に与え、オープンに清々しく高めるこができる。
そんな仮説をこれからしばらく自らをもって実験していきたいと思います。
私の宝である人とのつながり(社会資本)に対して、ほったらかしにしたり翻弄されたりするのではなく、これからも健全にリソースを投資し、恩恵もしっかりと受け入れていこう、と思っています。

今日のこのnoteが、少しでも皆様のインスピレーションとなります様に。

木蔵(ぼくら)シャフェ君子


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