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Non-Self Compassionワークショップレポート〜「セルフ・コンパッション」の「セルフ」とは何?なぜ入れる必要があったか?〜(後半)

前半では、
1. 初期仏教におけるセルフ・コンパッション
2.そもそも自己(Self)って何?
3.自己(Self)が私たちの人生をこじらせる
について私見を含めたレポートをお伝えし、「わたしという実体がないなら、セルフ・コンパッションのセルフって入れるのはおかしいんじゃない?」という元も子もない結論になりそうだったのですが、後半いってみよう!

実体としての「わたし」はない。そうは言っても、、、

ここまでの流れだと、仏教的に「わたし」とはいないのだから、苦しみの原因である執着や嫌悪も妄想。だから安心してくださいーーってことなの?
ちょ、待って!全然スッキリしないんですけど。
悟った人なら、執着も嫌悪もなく心清く生きていくことができるのかもしれないし、それは憧れるけど、私がそこに至るにはあと50回くらい転生する必要がありそうです。それよりとりあえず今生でよりよく生きたいんですけど(汗)。
それに、「わたし」という概念や意識は必要で役にも立っています。
何かを実行・実践するうえで、主体としての自己意識があるからこそ過去の自分の経験と比較して改善していくことだってできる。「わたしは存在しないのだから、何をやっても無駄。だったらもう何もしなくていい」という安直なニヒリズムに陥らず日々の活動に意義を見出せる。
ということで、悟りとは程遠い自分に役立てるには、「わたし」とどう向き合うのがよいのか?ワークショップ後半では是非そのあたり見つけて行きたいと思います!

こじらせる「わたし」への解決法としての四無量心とマインドフルネス

本当は瞬間瞬間にあぶくのように湧き続ける不安定な「自己」という概念なのに、それをほったらかしにするとお部屋と同じくとっちらかって汚れっぱなし、いうなれば「自己の汚部屋化」。
あれが欲しい、これは嫌だ、もっとやらなきゃ、いややりすぎはいけない、あの人と比べて私は上/下だ、私ってすごい、私ってひどい、、、
これら一つ一つは否応なく湧いてくるものなので、どうしようもないのですが、問題はほったらかしにして、だんだんとそれを現実だと思い込むこと。
その解決法としてオレンズキー博士がおっしゃったのが「四無量心とマインドフルネスの実践」です。
執着や嫌悪をお掃除し心をクリアに純粋にすることが、苦しみからの根本的解放をもたらし、仏教的実践である四無量心とマインドフルネスが存在する理由ですよ、と私は受け止めました。

オレンズキー博士のこのスライドには仏教の基盤の多くが盛り込まれているので、皆様にもシェアさせていただきます。(掲載許可を今いただいているところなので、後で削除するかも)

まず四無量心とは?ウィキペディアさんに聞いてみよう:

慈無量心「Loving-Kindness 慈しみ」、相手の楽を望む心。
悲無量心「Compassion 憐れみ」、苦を抜いてあげたいと思う心。
喜無量心「Appreciative Joy 喜び」、相手の幸福を共に喜ぶ心。
捨無量心「Equanimity 平静」、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%BF%83

上記の全てに入っている「無量」は「無数にある、余すことなくありとあらゆる相手」という意味です。特に自分が含まれるかどうかは、ここでははっきりしていません。
もっと興味深いのは、オレンズキー博士が「四無量心の実践は対象を必要とするが、その目的は必ずしもその対象を救うことではない。あくまで自分の心を癒しクリアに清めるため」と強調されたことです。おお。
また、心をクリアにするためにはやはりマインドフルネスが必要であると。
この場合のマインドフルネスの重要性は「Non-Judgement」つまり余計な解釈をせずありのままを見ること。例えば「執着・欲望=もっと欲しい」も「ああ、いま心地よさが起こっている」になり、「嫌悪=嫌だ・ダメだ」も「ああ、いま不快感・痛みが起こっている」にとどまります。
そうすると、「わたしが、わたしが」という心の状態から「心地よさ、痛さ」といった、私以外の対象に関心が向いている心の状態にシフトします。
「わたし」は無くなるわけではないのですが、薄れる、ゆるむ、とでも言いましょうか。
このようにマインドフルネスによって、「わたし」がゆるむと自己中心的な考えから解放されて、平静、慈しみ、コンパッション、素直に人の幸せを喜べる気持ち、など四無量心へと心の道筋がつながりやすくなります。
そして四無量心がもたらす満ち足りた状態から、苦しみも和らいで癒しが始まっていくのです。
かくして、エゴを守るためにガチガチに硬くなったり、なんとなく日常に追われて汚部屋になってしまっていた心であっても、マインドフルネスと四無量心でクリアで清らかな状態に向けることは可能であると。
ふむふむ、これだったら50回転生しなくても、少しでも取り入れることはできそう。

マインドフルネスと四無量心からのSelf-Compassion(与えるものが救われる)

ここからやっと、本題であるSelf-Compassionに話を戻します。
悲しい時、辛い時、感情が揺さぶられるときには、「傷ついた自分」「●●な自分」(●●には、かわいそう、がんばっている、偉い、ダメな、など色々入りますね)の「自分というストーリー」が湧き上がって、そこに入り込んでしいますよね。
「自分というストーリー」が湧き上がらないようにする、というのは先にも言いましたが私の場合50回の転生を要するので、無理ゲーです。
そこで、先に述べたマインドフルネスと四無量心で「自分」をほぐしつつ、状況に向き合うために、Mindful Self-Compassionは生み出された、とだんだんと見えてきました。
四無量心では、「わたし」は慈しみや思いやり、喜びを与える側にあります。つまり、わたし=GIVERなわけです。
「かわいそうな自分」「傷ついた自分」「●●な自分」に固執していると、TAKER(またはRECEIVER)のままでGIVERにはなり得ません。
自分というストーリーに巻き込まれそうになったら、「ああ、今自尊心が湧いている」「ああ、今過去の辛いことを思い出している」など、ありのままの現象に気づき、エンパワーされ、GIVER側にシフトさせてくれるのが、マインドフルネス。
そして、そんな自分を思いやり本当に役立てるよう手を差し伸べるのがセルフ・コンパッション。つまり、セルフ・コンパッションにおけるわたしとは,
あくまでコンパッションを与える人、GIVERのほうなのです!!!

「四無量心の目的は必ずしもその対象を救うことではない。あくまで自分の心を癒しクリアに清めること」(オレンズキー博士)
必ずしも「救って欲しい」と思っているTAKERの自分のためではない。(結果として癒され救われるということはある)
やっとすっきりしたー!!(半分くらいね)

終わりに

クリスティン・ネフ博士とガマー博士は、きっとこのようなことを踏まえて、ご自身のプログラムをマインドフル・セルフ・コンパッション(MSC)と名付けられたのではないしょうか。
           Center For Mindful Self-Compassion https://centerformsc.org/
人は苦しみにあると、自分を守るために自己概念を強化します。これ自体は悪いことでもなんでもない自然なことですが、その結果執着・嫌悪も強めて、苦しみを悪化させることが多々あります。
そこで、マインドフルにありのままに気づいて、解釈やバイアスだらけのストーリーから心を解放する=Less Selfing、自分をほぐしてゆるめる。
こうして、四無量心を取り戻しGIVERとなり得て、さらに苦しみから解放されることとなる。
「いや、自分や他者、GIVERとかTAKERっていうのは二元論だから次元が低いよ。」とふと心のつぶやきも湧くのですが、二元論であっても今の理解に立脚していけばいいと思いました。そしてこれからまた学びを続けて,
もしステージが上がっていけばそれはそれでいい、と。
長文、おつきあいいただきありがとうございました!
わかったつもりになる前に、このようにnoteにまとめさせていただくのはとても苦戦しましたが、改めて私自身の学びを深めるきっかけとなりました。
少しでもなんらかのお役に立てればとても嬉しく思います。
木蔵ぼくらシャフェ君子

PS. 以下に7−9月のイベント・出版物などお知らせさせていただきます。
必要とされる方に届きますように!



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