フィードバックのおかげで”自分”がわかった (続き)
先週のこちらの記事が途中で終わっていて、今週はその続きから始めます。
わたしにとってはかけがえのない「宝の山」であるはずのメモの山。
そのおかげで長編大河ファンタジー小説を書いているわたしなのに、どこでボタンを掛け違えたのか?
メモはなぜ、いつの間に”片付かない厄介者”に化けてしまったのか?
今日はこの「なぜ?」を解き明かしていこうと思います。
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実をいいますと、こうやって記事を書いている、まさにその行為を通してわたしは物事を考えます。
物書き種族にとって「書く」という行為はイコール考えることです。
考えを深め、なにかしらの答えなり解決ルートなりを見つけ出す行為、と言えます。
メモ書きは、その意味において、ちいさな1ステップです。
「あっ!」と思い浮かんだことをちょいちょいと書き留め、また何かが浮かんで来たら、それもまた、別のメモ紙にちょいちょいと書く。
そうやって、小さな小さな考えのピースを貯めていきます。
それを時々取り出して見返すと、書いた時にはバラバラだったはずのピースが思いがけずつながっていることを発見することがあります。
あるいは、ひと塊のピースから、次の思考やアイデアが広がったりもします。
わたしにとってメモを書くという行為は、こうした切れ切れの思考の積み重ねと組み合わせを生むこと。
一つ一つの短いシーンが組み合わさり関わり合って、ひとつの小説世界を作るのとまったく同じ仕組みですね。
思い浮かんだこと、気がついたこと、気になったこと。
そうした小さな小さな思考の断片が、やがて大きな何物かに育っていく。
本来わたしのメモの扱い方は、こうであったはずなのです。
*
だから、メモ用紙が山盛りになっていても問題はありませんでした。
なのになぜ、厄介なもの、片付けるべきものに見えてしまっていたのか?
その理由を見つけるために、そうでなかった頃のメモやノートの取り方を思い出して、現在の状況と見較べてみました。
そうしたら、なんか見えて来た……(笑)
同じはずのものが違うモノに見えてしまっていた原因。
それは「見かた」の差でした。
小説のネタのメモと言うのは、何のために書いているのかが明確です。
だから、何十年もしまい込んであったとしても、その扱いに悩んだりはしません。
ポイントはそこにありました。
今のわたしが、溢れるほどのメモをみてゲンナリしている理由。
それは、そのメモを何のために書いたのか、何に使おうと思って書いたのか、という「メモを取ることの目的」を見ていなかったから。
ついつい、中身を見てしまっていたんです。
内容による分類という考え方には、目的や用途が含まれていません。
ただただ仕分けするだけです。
(余談ですが、すぐ中身で分類したくなるクセがありまして、それはおそらくわたしが長年経理の仕事をしていた影響なのかもしれません)
中身・内容で仕分け分類されたものには、エネルギーが無いんです。
文字通り死蔵品と化します。
エネルギーと言うのは、力の方向性を備えています。
ここではメモの「目的・用途」がエネルギーを生むポイントでした。
これが今のわたしの視点に欠けていたために、メモの扱い方がわからなくなっていたんですね。
*
そう気づいたら、山盛りのメモがまるで違ったものに見えてきました。
どうやって分けて、どう対処するかも、すぐに思い浮かびます。
つまり、メモを生かす(ほんと文字通りです)道が見えたということです。
そうとわかっただけで、心も体もなんだかスッキリと軽くなりました。
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なにかに迷ったり停滞している時にはやはりこれが一番です。
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日々を満たされて生きるために、誰にでもできるささやかな幸せ習慣。
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