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夢旅人の9割は「セルフドリームキラー」になるという残酷な現実

あなたは、夢をあきらめたことがありますか?

僕は、おおいにあります。

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九州最大の繁華街・天神。夕方以降になると、路上ライブをしている若者を渡辺通り沿いでよく見かけます。オケを流しながら歌う少女、アコースティックギターをかき鳴らしながら楽しそうに歌う男女ユニット。

「ピッチが甘いなー」「もっと右手のストローク鍛えればギターの表現力出るのにもったいないなー」と思いながら、その場を通り過ぎる私。

ルックスのいい女の子が渡辺通りに現れて歌い出すと、周りにはいかにもモテなさそうな30〜40代のおっさんが取り囲み、「僕が最初にきみを見つけたんだよ」的な眼差しを送っているのを「キモっ!!」と思いながら、その場を通り過ぎる私。

私もメジャーデビューを夢見てバンドを組んで、ライブハウスや公園でライブをしていました。2000年代初頭はSNSがmixiくらいしかなかったので、お客さんを集めるのにSNSを使うという発想がありませんでした。

令和時代のミュージシャン・アーティストを夢見る若者たちは、SNSを駆使してお客さんを募っています。ずいぶんとPRやプロモーション手法も進化したんだなぁと、20年前との違いを感じていました。

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2003年は25歳の年。この年で最大の衝撃だった買い物は、第3世代のiPod。当時組んでいたスリーピースロックバンドのリーダーであり、ベーシストとしても先輩だった方が第1世代のiPodを持っていて、「キム、これはすごいぞ!」と、いちいちMDやDATに録音しなくていい便利さを教えてくれた。

私は当時iMacは使っていたが、音楽はaiwaのMDコンポを使ってCDからMDにダビングしていて、かなりの枚数のMDがたまっていた。iPodに乗り換えるということは、MDをもう使わないという選択をすることになるので、もったいないお化けを恐れていたのだ。

でも、ジョブズの誘惑に負けた。第3世代のiPodはそれまでとデザインが変わり、タッチボタンが採用されてさらにイケてるデザインになった。それまでMacで聞くように取り込んでいたMP3データを全てiPodに取り込んで再生できるようにした。

テクノロジーの進化とは、私たちの生活を便利にし、豊かにしてくれる。いちいちディスクを取り替える面倒をなくし、「iPodを持っているイケてる自分」をなんでもっと早く満喫しなかったのかと、それまでの自分を悔やんだ。

2003年は「このまま音楽を続けていて大丈夫なのか?」と初めて思った年だ。「音楽を続けていていいのだろうか?」ではなく、「続けていて大丈夫なのか?」だ。「25歳ということは、四捨五入したら30歳」自分の人生で初めて「30歳」という意識した時でもある。

高校を卒業して「絶対メジャーデビューするぞ!」というほどの決意は持たず、「数年頑張ったらなれるっしょ」というかなり軽い気持ちでフリーター×バンドマンの道を選んだ。

ベーシスとしての腕は間違いなく上がっていて、いくつかのバンドをヘルプで掛け持ちするほどにはなったけど、「デビューに向けてこのメンバーでやっていきたい!正式加入したい!」という「就職予定バンド」には巡り会えていなかった。

冒頭に挙げたスリーピースバンドは実験的なロックバンドだった。ドラムは40代の課長でサラリーマンだけど、セミプロ並みにうまいチャーミングな方。リーダーのギターボーカルはプロベーシストでミキシングエンジニアなどもこなす音楽家で、歌とギターで自身を表現する場として私を仲間にしてもらった。

このバンドにいたことで、さらにベーシストの腕は上がった。唸りを上げるような8ビートとリズミカルにハネる16ビートは良い感じのグルーヴを出せるようになっていたが、スウィングする4ビートのノリがつかみきれていなかった。

「これをコピーできるようになるといいから、よく聞くといい」と教えてもらったアルバム「Donny Hathaway - Live」を買って、それまで弾いたことのないノリのベースをひたすらコピーした。

この年はジャズやボサノバ、レゲエの曲のコピーを重点的にコピーした。ベーシストとしての腕は上がっていたけど、「就職予定バンド」が決まらない。さすがに7年やって見つからないのは「大丈夫なのか?」という疑問に変わっていった。

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私の同世代の音楽仲間が音楽を辞めて就職したり、故郷に帰ったりしたのは2002年くらいから。

大学を卒業して就職したスーツ姿の同世代の姿を見て、いろいろと考えてしまって自分も就職の道を選んだ人、親御さんの意向もあって「○年で結果を出さなければ故郷に帰る」約束をしていて、約束通りに帰った人。ぽつぽつと大都会・東京の厳しさと儚さを傍から見つめていました。

1年後の2003年、25歳になった私にも「このままで大丈夫なのか?」という疑問が生まれました。生まれた疑問はなかなか解消されません。次のステップを探すべきなのか、「30歳まで!」と決めてもう一度気合を入れ直して音楽に向き合っていくのか。でももし、30歳になって結果が出てなかったらさすがに人生キツいんじゃないか。

期待もあるけど不安もある。今の自分の言葉遣いで表現するなら、「どこまで自分にベットできるのか」を考え始めた年でもあります。これまでの無計画だった人生が「年齢」を見つめた途端、計画を立て始めるんです。

翌年2004年も考えました。「就職バンド」をどうするか。バンドはメンバー全員の力量だけでなく意思疎通も大切になります。当時はベンチャーとかスタートアップという言葉は知りません(そもそもなかったはず)でしたが、「バンド=スタートアップ」と言っても過言ではありません。

「ヘルプでサポート=業務委託」の形でいくつものバンドを掛け持ちしてはいたものの、「グッとくるバンド=スタートアップ」がなかったんです。それならプロベーシストとしてやっていく選択肢もと思ったのですが、それだけで生活していくにはかなり厳しいのではと思っていました。

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音楽、ダンス、漫画、俳優、小説家、アーティスト、いつの時代にも「夢旅人」はいます。昭和・平成と比べて「夢旅人」も少なくなっているかもしれません。

悲しい現実ですが、夢旅人たちの旅の9割以上は、彼・彼女たちが行きたいと願っている目的地にたどり着くことはできません。

僕も「メジャーデビュー」という目的地にたどり着けませんでした。


1人でやっていけるやりたいことを模索した結果、当時ブームになっていた「放送作家」にチャレンジしてみようと、よしもとNSCの願書を取り寄せたのが2004年の冬でした。

NSCに入ることが決まった時、「正直、負けた」と思いました。メジャーデビューした人たちに。

僕が今まで組んだバンドと彼らとは何が違うのか、いくら考えても理解ができなかった。

いまではそれなりに分析もできますし、実際デビューした人に話を聞いたときにマーケティング分析のレベルの差に驚き、「そりゃあデビューできんわ、私」と思った事もありました。

でも、当時は全く理解できず、「人に恵まれなかったのか」「僕の人間性に問題があったのか」と、そんなことばかり考えていました。

結局、27歳の年になる2005年にNSCに入り、2006年から放送作家として活動していくことになり、運良く15年ほどお仕事をさせていただきました。

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僕は、夢をあきらめたことがあります。

「あきらめなければ、夢は叶う」と言います。

僕は「ドリームキラー」ではないので、人の夢は応援する立場です。

ただ、応援する人が「夢旅人」の目的地に行ける確率は限りなく少ない。


夢旅人は人生の転換期においては「セルフドリームキラー」を発動しないといけないときがあります。


自分の夢を自分で殺すなんて、残酷ですよね。

でも、僕は一度、自分の夢を殺しています。フタをするのではなく、千のナイフで夢を刺し殺したんです。

でも、26歳の時に刺し殺した「音楽」という夢は、「放送作家」という新しい夢を生み出してくれました。

天神で路上ライブやパフォーマンスをしている人の殆どはいつか「セルフドリームキラー」になるでしょう。泣くほど心が痛みます。恥だと思います。負けたと思います。

でも、次の夢はきっと見つかります。私は見つけました。「セルフドリームキラー」になれたからこそ、見つけたんです。

あのときの辛い思いがあったからこそ、歯を食いしばって放送作家としてやっていけたのだと思っています。

だから僕は「ドリームキラー」にはならないんです。

自分の夢を殺すのは、自分しかいないのですから。





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