見出し画像

「ウエストサイドストーリー」と「ギリギリ」

映画、「ウエストサイドストーリー」を観た。

「ウエストサイドストーリー」という名前はもちろん知っていたし、吹奏楽部に所属していたものだから、何度も曲には触れる機会があった。
(吹奏楽では、ウエストサイドストーリーの曲をやるのは、鉄板なのだ)

でも、お恥ずかしながら、どんなストーリーなのか、この年になるまで全くもって知らなかった。
私は、映画についてはそういうパターンがかなり多く、いつも旦那さんに「え、観てないの!?」と、常識知らずの烙印を押されるような目線を向けられてしまう。
(そこで、「世の中の全員が見ていると思うなよ」、見たいな大人気ない態度を取ってしまうところまでが、デフォルト)

私が今まで触れていた「ウエストサイドストーリー」は、音楽面だけだったので、てっきり、それはそれはたいそう楽しい映画なのだと思っていた。
しかし、初めて出会った「ウエストサイドストーリー」の内容は、私の予想を翻すほどの、バッドエンドだったのだ。

あんなに、最後に誰も報われない内容だったとは、驚いた。
「感動した」と言いたいところだったのだが、あまりの悲劇的な終わり方に衝撃を受けてしまい、なんとも言えない気持ちになっている。

そんな気持ちになりながら、「愛」や「分断」がテーマなのだろうと分かりつつ、
見終わった今、私が一番頭から離れないセリフは、
「戦うことが、彼らの生きがいなのさ」
という、主人公が自分の仲間たちの様子について語るセリフ。

結局、違う人種である他者を受け入れず、相手を倒すという方法をとったことで、彼らは悲劇的な結末へと向かっていくわけだが、
そんな「戦うこと」が生きがいだなんて、「みんな心穏やかに過ごしましょうよ系、超平和主義」の私には、信じられない気持ちなのである。

「戦うことが生きがい」…。
実際、人間の歴史は、戦いの歴史であるとも言える。
それって、どんな心境なのだろうか。

私が想像しうる範囲で考えると、「戦う」ことは「自分の存在を感じられる行動」なのかもしれないな、ということ。
身体的に、感覚として直接「生」を感じられる。
心情的に、ギリギリのところに自分を追い込むことで、「生」を感じられる。

そういえば、私が「生きている」と感じる場面も、「ギリギリ」な場面に立った時だということを、ふと思い出す。

それは、音楽を誰かと合わせている時。
音楽は流れているので、降りられない。スリルを感じるギリギリの状態で音を重ねているそんな時、私は「生きている」と感じる。

そう考えると、「生」を感じるには、ジェットコースターのように、降りられない「ギリギリ」の状態に自分を置くこと。
それが、「生きていること」を感じられる状態。

時代や状況は変われど、人は、それぞれの、「生」を感じられるギリギリの状態を、求めながら生きているのかもしれない。

「ウエストサイドストーリー」を見て、そんなことを考えていた。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?