アルベール・カミュ『ペスト』

 これも、昨年末に買っておいた一冊。1月20日に読み始めて、2月8日に読了。・・・フランス語は小説を読みこなせるほど得意ではないので、日本語に訳されたもの。

 ある「書き手」の視点により綴られる、感染症の猛威にさらされ封鎖された街。医師リウー、医師カステルであったり、神父パヌルーであったり、偶然この街に居合わせたがために一緒に閉じ込められる「よそ者」タルー、そしてランベール。それぞれの立場から、やっかいな感染症とどう向き合い抗っていくのかが描かれている。感染症との闘いの中で、果たして人は変わるのか。変わりうるのか。

 医師というその立場ゆえというのもあって、ひたすらに患者に向き合い続けるリウー。信仰に生きてきたがゆえに、目の前の災難を神の怒りと説明するパヌルー神父。はたまた自分は仕事でたまたまこの街にいたにすぎないよそ者なのだから、感染していないなら封鎖された街から出ていく権利があるはずだと主張する記者ランベール。同じくよそ者でありながら常に弱きものの側にいようと努める理念の人タルー。老齢であるがゆえに悟ったような雰囲気さえある「喘息病みのじいさん」。かと思えば、感染症の非常事態であるがゆえに逮捕から免れられていて、であるがゆえに感染症を肯定し歓迎してさえいるような犯罪者コタール。様々な生きざまであれ、誰一人として極悪人としては描かれていないのだ。

 小さな少年がペストに感染し、苦しみ抜いて命を落としていく。その姿に、皆が不条理を思う。このやっかいな感染症が、罪を犯した人への神の怒りであるとするならば。このいたいけな少年が何をしたというのだ、と。この少年にどんな罪があるというのだ、と。神父もまた、その考えを変えていく。すぐそばに死の恐怖があり、特効薬があるわけでもない。街から逃げ出すこともできない。逃げ出そうとした人が撃たれている、そんな音も聞こえてくる。そんな極限に立たされたら、人間は何を思うのだろうか。どう行動するのだろうか。よそ者であろうが、金持ちであろうが貧乏であろうが、運命共同体としてふるまう他なくなってしまう。

 そして、感染症による死に遺される者の嘆き。感染が確認されると隔離され、家族は愛する人を看取ることもかなわず、亡骸に縋って泣くことも許されない。死者との別れを許されない、その無念たるや。無常たるや。得体の知れない感染症とのつきあいは、1947年に出版された「ペスト」の頃も今もさほど変わってはいないのだと思い知らされた。
 現実を取り巻く状況がよくなったころに、再読したいと思っている。

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