見出し画像

人と比べるってどういうこと?

”そもそも感情ってみんな同じように感じれてるのかな?”


言語聴覚士をしていると、聴覚、視覚、触覚、嗅覚、味覚のどこか機能していなかったり、感覚の程度が強すぎたり弱すぎたりする子によく会う。

同じ光を見ても明るいと感じる子もいれば、暗いと感じる子もいる。

同じ音を聞いてもうるさいと感じる子もいれば、音すら聞こえない子もいる。

そして、生活に支障をきたす敏感さや鈍感さを持った人もいる。

そういう人と接する環境でよく考えるのは、
「私の基準ではこう感じるけど、この感覚を持った人だったらきっとつらいだろうな。」って思うことがよくある。
逆に私はきついけど、この人にとってはきついという感覚すらないのかもしれないなっていうこともよく考える。

だからどれが良いとか正解とかではない。



同じ出来事が起こったとしてもダメージの程度は人それぞれ。

私がよく思い出すのは、
大学時代一緒にボランティア活動をしていた時、
Aちゃんは家族でトラブルがあって苦しんでた。
同じ時期にBちゃんは、活動の中である役割をしたくないのにしないといけないことで苦しんでた。
緊急度としては客観的にみて家族でトラブルがあっているAちゃんって考えがちだし、BちゃんもAちゃんの手前きついと言えないって言ってたんだけど。。。
私からするとAちゃんの辛さもBちゃんも辛さも天秤にはかけれないと感じた。どちらもそれぞれその人の感覚で辛い。万が一辛さを計れたとして、Bちゃんの方が辛いかもしれない。

人の基準ってあくまで人が作ったもので、グラデーションになってて、
平均っていうのはその条件を持っている人が最も多いということ。

知能検査などをしていると基準があるからどうしても数値が高いから良い!低いから悪い!と決めてしまいがち。(やっと最近そういうことでもないかもしれないと考えられるようになってきた。)

知能に関してはセンシティブな内容だから簡単に口にできることではないけど、知能が高い=幸せというとそうでもない。

そして、私はハンディーキャップを持った子がとても素敵な笑顔でお母さんと話している姿をみると、心の底から幸せだろうなって感じることが多い。


前々から感じていたのは、お母さんがその子自身(ハンディキャップも含めて)を受け入れていたら子どもはとても良い笑顔をするなっていうこと。

溺愛女子サロンで溺愛思考を学んでから、子どもの訓練をしていて気づいたことは、
お母さん自身が自分を受け入れていて笑顔だったら子どもも笑顔であるということ。

お母さん自身が自分を受け入れてたら他人も(子どもも)受け入れる可能性が高いなって今は思う。
そして、簡単な話ではないかもしれないけれど、お母さん自身が自分自身を満たしてあげられる時間をもっと増やしてほしい♡!



私は溺愛女子サロンで唯一比較していいのは過去の自分という言葉を聞いて大事にしてる。

訓練に来ている子どもにも思うことは、その子にとって難しいことができるようになった時にほんとにすごいなって感動する。

私は声を出したり、食べたり、歩いたりができるけど、それが当たり前ではない人もいる。

言語聴覚士あるあるかもしれないけど、
ペットボトルを上向いて思いっきりごくごく飲んでいる時にすごく幸せを感じる。いつかはこの動作がしたくでもできなくなる時が来るって思っているから。



ついつい私は今あることを忘れて不機嫌になっちゃうから自分の振り返りとしてこうして残させてもらいました。

あくまで私個人の考えです。これを読んで傷ついたり軽々しく言わないでほしいとか思う人もいるかもしれない。

そして、忘れてほしくないのはハンディキャップを持っていない人こそ辛いことも世の中いっぱいあるってこと。

誰がえらいとかではなく、平等ではないからこそ、今の自分の足りないところではなくあるに目を向けていきましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?