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ASDはこだわりが強いわけではない

例①

私はいわゆる潔癖症で、外のものすべてを不浄だと認識している。そしてその不浄なものに触れた手もまた不浄だと認識している。さらには不浄な手で触れたものもまた不浄だと認識している。

学校のあったある日の夜中、私はクタクタになりながらベッドに横たわった。意識は朦朧としていたが、ちっぽけな疑念が脳内に浮かび上がった。
「そういえば、帰ってきたときに手を洗う前に頭を掻いてなかったか?」と。
記憶を辿ってその真偽を確かめられるほど余裕はなかったので分からなかったが、それでもその疑念はどんどん肥大化していった。私は不快感と焦燥感に駆られ、枕のシーツを掴むと(汚れた頭に触れたシーツも汚れているので替えないといけない)ふらふらとしながらシャワーを浴びて、乾かす気力もないから濡れた髪の気持ち悪さを感じながら気絶するように眠った。

一緒のベッドに寝ていた母親は私の正気を軽く疑っていた。

例②

私はなにかの弾みで右の太ももを1回叩いたとき、左の太ももも1回叩かなくてはならない。そして、次は左→右の順番で1回ずつ叩かなくてはならない。
なぜなら、左は1回も叩かれていないのに右だけを1回だけ叩くのは偏っていてバランスが悪いからだ。また、右→左の順番だけやって、その反対の順番をやらないのも偏っていてバランスが悪いからだ。

テレビを楽しんで見ているとき、もし片方だけを叩く偶然が起きてしまったら、私はルールに従って手順を踏まなくてはならない。楽しいテレビからわざわざ意識を移して、である。

それを放置しようとすれば脳内に警報音みたいなものが鳴り響き、却ってテレビに集中できない。


結論

これらの話を聞けば分かるだろうが、ASDは単にこだわりが強いわけではない。
確かにこだわりはあるが、それだけでなく、ルールがたくさんある。このルールは破ると(精神的な)ペナルティが課せられるが、メリットはない。
ASDの特質の働き方が「やれば幸せになれる」となれば「こだわり」だし、「やらないと不幸せになる」のなら「ルール」になる。

こだわりとルールのどちらが強いのかは医学的にまだ分かっていないし、個人差はあるだろうが、それでもこの違いは絶対に存在する。

こだわりには「大好きな猫のデザインをたくさん入れるようにこだわりました」みたいな「本人が好きでやっている」というニュアンスが含まれているが、言語の意味は多数派の人間に作られる。だからこれは健常者の話で、ASDにとってはそんな単純な話ではない。

こだわりが強いとかこだわりが多いとか言うとわがままに聞こえるかもしれないが、それは偏見だ。

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