好きと大切を分離させる時代

人間がなにかを大切に思い始めるとき、たいてい、その"なにか"のことを好いているな。
好きだから大切にしたい、という表現はおかしくない。大切だから好き、という表現はおかしいが。

人間がなにかを好きになるとき、その"なにか"には価値があるな。価値がないものを好きにはならない。
しかし価値というものは絶対ではなく、時、場所、人によって変化する。

だから人それぞれ好きなものは違うし、大切なものも違う。これが問題だ。
俺は私はこれが好きだからこれは大切だ!なんて言ってたら大切なもの同士で軋轢が生じるときがあるし、好みなんて曖昧な物差しでなにに有限なリソースを注ぎ込むか……大切にするか選ぶのは愚かだし、そもそも価値なんて当人の思い込みでしかない。

私たちは好きでないものを大切にしなければならない。
キャンプは好きだからキャンプ文化は大切だ!と言うのなら、環境保護活動に勤しんだり寄付したりしよう。地球を好いていなくても大切にしなければ地表が荒れ果てキャンプ文化は滅ぶかもしれない。

私たちは今まで好きなものばかりを大切にしてきたが、これからは、大切なものを大切なものとして単体で認識しなければならない。たとえば、好きなものをなりたたせるものは好きでなくても大切だ。両親もあらゆる場所と時間において唯一の存在だから、好きでないとしても、いっそ嫌いでも大切ではある。

人類史的なロマン主義は熱さと冷たさに揺らぎがあれど……近代から終わるのだ。

追記

義、正義とか主義とかに使われる言葉。ルールの意味がある。
理、理性とか理屈とかに使われる言葉。そうあるべきという意味がある。

大切について考えるためには義理の概念が有効かもしれない。義理、という言葉は本人の感情に関わらないが〜〜〜というように使われる。友人関係だから、そのルールに基づいてそうするべきだ、というように義理チョコなどという言葉があるように。

これからは義理を大切にしよう。一体感情を置いておいて、法則と理性に基づいてやることはやる。

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