自由は否定から発展する

ヘーゲルの精神現象学の解説を読んでいた。
その中で「主人と奴隷なら、奴隷が真に自由である。奴隷は「逆らえば殺すぞ」と脅されているがゆえに皆苦に囚われず行動する……つまり本能を否定するからである」と書かれていた。
なるほど、たしかに本能の赴くままに生きるのに意思は働かないから本能を抑えることこそ理性の働きであり、それが自由について認識させると思う。では、人間がより自由に生きるためには抑圧されるべきだろうか。
それももちろんちがう。もし私が四肢を縛られていたら、そのうち「飯をくれ!」って思いでいっぱいになると思う。これもある意味では理性(精神)が飢えという本能(肉体)に抑圧されているとも言えるが、自由の概念は理性によって発生するものだから理性を縛っては自由もない。ただ、四肢を縛られている状態と四肢を縛られていない状態を感覚として認識するのみである。
抑圧は自由を認識させる手段であって自由に生きる手段ではない。しかし自由を認識することは自由に生きる手段である。その手段を見つけるために、逆に、最も不自由な生き方を考えてみた。それは、すべてを肯定する生き方である。
自由と不自由は二項対立で相対的なものであるから、自由を認識しなければ不自由も認識できないし、不自由を認識しなければ自由も認識できない。すべてを肯定するということは、あるものをある、として生きるだけの生き方…………つまり自然的な、動物的な、感覚的な生き方であるからそこに理性はなく形而上の自由も不自由も認識できない。生まれ持った五感だけで世界を、あるものを認識することはできても、あるものが本当にあるのか?という疑問を持てない。与えられたものだけでやりくりしている様は、理性あるものから見れば不自由である。
逆に、自由な生き方とは否定である。あるものをあるものとして受容するのではなく、理性によって疑う様は自由度が高いと言える。
さて、長々と講釈を垂れたが結局のところ私がしたいことは現代日本の教育のとある一場面への反対だ。
「個性を尊重してのびのびと成長しましょうね」
ふざけるな。個性を伸ばすと言っておきながら、教育は子供が学校に行くことを合理的にも常識的にも原則としているし、そもそもその空間には「個性を尊重してのびのびと成長しよう」と教育された者しかいないのだ。教育者と教育機関は必要な分だけ学生の個性を殺し、必要な分だけ・不必要でない分だけ個性を伸ばさせる。つまり、教育にはいくつかの段階があって、その下層の部分については望み通りの画一化された個性を構築されるのである。
むしろ、「なんで個性を尊重してのびのびと成長しなきゃならないんだ」と否定する子供は理性を使っていて、自由度が高く、個性的である。
まあ、運命論者的にはすべて茶番ではあるが、このような教育に問題があるとは思う。

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