存在について・Ⅱ

 前書き


 この記事は「存在」について書かれたものである。どのようなことを考えるとしても、まず存在について考えることから始まる。存在がなければ、他のすべてもないからだ。
 書き方としては、11個のブロックに文を分けた。また、日常で使われる言葉と具体的な例と図を多用しているが、考えを広げるために造語を多用しているため分かりやすくはない。同じことを別の言い方で著すことも多々ある。
 存在についての記事は試論だが以前も書いた。それを哲学同好会で発表したところ、無知な部分と説明が足りなかった部分が判明したため、修正したものがこの記事である。
 そして存在についての記事は文芸サークルの文芸誌に載せる予定であるが、それはおそらくⅢになるだろう。つまり、この記事もまた試論だということである。
 
 この存在論の目的は「人間の認識に関わらず存在するものを探す」ことである。



 用語集(画像)


また、この箱の中と外には虚無があるのではなく、なにもないということがある、手を突っ込んだり物を置ける、箱が存在できる場・根拠・理由がある。ということで「余地」がある。余地とは認識・欲求による変化の可能性であり、存在Aである。また、箱は箱を中に入れ、その箱もまた大きな箱の中にある。箱の壁は我々の認識による区別によって生まれ、一つの箱を構成する六つの壁を取り除けば存在そのものが無限に広がる。
メモ

 存在そのものについて・存在の性質

 
 存在の性質には四つある。「被全体性」「強全体性」「個別性」「唯一性」である。「被全体性」は、あるものがあるものを構成するものにされることである。「強全体性」は、あるものがあるものを構成するものにさせることである。「個別性」は、それが単体で捉えられることができるということである。「唯一性」は、それと同レベルのものがないということである。

 英語を例にしよう。英語は「Eat」「Home」「Cute」などの単語で構成されている。一方で、「ドイツ語」「フランス語」「ロシア語」などと共に『言語』を構成している。つまり、英語はを構成するものされているということで「被全体性」を持ち、一方で単語を自らを構成するものにさせる「強全体性」を持ち、「英語」と一言で言えることから「個別性」を持ち、しかし他言語という同レベルのものがあるため「唯一性」は持たない。

 存在そのものは「被全体性」「強全体性」「個別性」「唯一性」を持つ。存在そのものの「被全体性」とは、存在そのものが存在そのものを構成するものにされるということである。存在そのものの「強全体性」とは、存在そのものが存在そのものを構成するものにさせるということである。存在そのものの「個別性」とは、「存在」と一言で言えることである。存在そのものの「唯一性」とは、存在そのものと同レベルのもの、存在そのものが消えても成り立つものはないということである。

 存在そのもの以外は「被全体性」「強全体性」「個別性」を持ち、「唯一性」を持たない。つまり、消えても他のなにかは成り立つということである。

 あらゆる存在の構造を図にするとこうなる。

汚すぎる

  あらゆる存在の中で「最大」である、「単語」→「英語」→「言語」としていった先にあるもの、それが存在そのものである。その一方で、あらゆる存在の中で「最小」であるもの、「言語」→「英語」→「単語」としていった先にあるもの、それが存在そのものでもある。なぜなら、どちらも「被全体性」「強全体性」「個別性」「唯一性」を持つからである。

 なぜこのような矛盾が起きるのかと言うと、存在そのものには二種類の働きがあるからである。一つ目は、存在そのものを存在させる、「能動」である。二つ目は、存在そのものに存在させられている「受動」である。「最大」のものとして人間に認識される存在そのものは「受動としての存在そのもの」であり、「最小」のものとして人間に認識される存在そのものは「能動としての存在そのもの」である。

 また、存在そのものを最大の粘土だとして、我々がそれを認識するのを加工とする。最小の粘土とはなににも加工できないもの=加工できるが、それをそれにしか加工できないので実質的に加工できないものである。

 存在そのものについて・存在そのものの構成


 存在そのものは存在そのもの以外すべてによって構成されている。存在そのもの以外すべてを構成する存在そのもの以外の個物とは、具体的に言えば「生き物」「物体」「妄想」、「いかの塩辛」「鼻毛」「かわいくなりたいなあという気持ち」、などである。これらすべてを集めると存在そのもの以外すべて=存在そのものになる。

 存在そのものはイデアとかモナドみたいな観念ではない。存在そのものとは「海苔の佃煮」「柔らかい光を灯すベッドサイドランプ」とか事実として存在するもののすべてである。ただ、そうであるがゆえに認識できない。たとえば宇宙は膨張し続けているし、単純に背後のものさえ我々は認識できない。背後をカメラで写したとしても、それは前方の視界にあって背後を映しているらしいモニターを見ているだけで背後を見ているわけではないのである。

 机を例にする。机そのものを認識したいとなれば、まず物理的に全世界の机を集める。そして、2024年5月11日に見たり、2024年5月12日に見たりする必要もある(2024年5月11日にとっての机と2024年5月12日にとっての机は違うので)。また、自分以外の人間の視点でも見る必要がある(自分にとっての机だけだとすべての机ではないので)。これだけでも不可能なのが分かる。

 つまり、存在そのものは存在するが、存在しすぎていて逆に認識できない。人間の能力では机上でしか認識できない=論理的には認識できる。

 無とは・架空の存在ついて

 
 ヌマンチョべベロンマンという漫画が実在する。いや、本当は実在しなくて、これは架空の漫画である。

 なぜ架空の漫画について語れるのか。それは、存在の構造の中に「日本語(今回は厳密にはカタカナだが)」「漫画」「語る能力」があり、つまり「ヌ」「マ」「ン」「チ」「ョ」「べ」「ベ」「ロ」「ン」という言葉(正確には文字と、それを文字とする認識だが)と、漫画の観念(漫画というものが実在するという認識)と、架空のものについて語れる確信と実際の事実(これも厳密にはそう認識しているだけだが)が存在するからである。

 架空の漫画は実在するのか。実際に存在する漫画としては実在しない。しかし架空の漫画として実在する。

 無とは・嘘について

 
 りんごがあると言われたが、ももがあった。このとき、りんごがあるという事実が無になるのではない。そもそもりんごがあるという事実など最初から無であった。しかし、「りんごがあると言われたこと」と「ももがあったこと」は事実であり、実在する。また、「りんごがある」ということは「事実としては実在しない」が「嘘として実在する」。

 無とは・実在と各種世界と方法

 
 さきほどから「存在」と「実在」を分けている。どう違うかを説明するために、存在が存在する方法と存在が存在する世界(これも方法なのだが、わかりやすい比喩として)について語らなければならない。また、「無とは」のブロックのみ実在という用語を使用する。

 存在が存在する方法とは「触れる」「証明できる」みたいな方法だけではない。そうでなければ妄想や妄言は生まれない。だから、「物理的に・理性的に(証明できる、多くの人と共有できるという意味で)存在する」とか「個人的に・情動的に存在する」とか存在する方法はいろいろある。

 しかし、「物理的に・理性的に(証明できる、多くの人と共有できるという意味で)存在するなにか」がなければ「個人的に・情動的に存在するなにか」は成り立たない。人間の肉体は前者の世界にあり、その肉体の脳が後者の世界に妄想を存在させ、それを妄言として前者の世界に送ったりする。しかし、前者の世界がなければ後者の世界が成り立たないのにもかかわらず、後者の世界がなくても前者の世界は成り立つ。その点で前者の世界が上位にあり、素朴に考えれば実在の世界である。どこまでも疑うのならば存在そのものだけが実在の世界に存在し、それ以外のすべてが個々人の頭の中の世界に存在する。そして存在には、「架空として存在する」もありだが、実在には「事実として存在する」ことしかありえない。
 
 追記

 実在する世界だから自分がそこに実在するのではなく、自分が実在するからこそその世界が実在するのである。つまり、自分が水槽の脳の世界(架空の世界)に実在すると思っていれば、その世界も実在する。

 まず大きな円を書く。その大きな円が「存在する世界」である。その中に小さな円を書く。その小さな円が「実在する世界」である。その実在する世界の人間(脳)に繋がっており、大きな円の中にありながら小さな円の外にあるものが「架空の世界」である。また、大きな円と小さな円の間の空間が「実在しないが存在する、人間に認識されると生まれる世界」である。実在の世界を広げれば存在の世界と一致するが、その方法はこれである。「この妄想は実在する」は妄想であり存在に過ぎないが、「この妄想は実在するという妄想は実在する」は実在する。

 あらゆる感覚が生まれつきないしなにも経験したことがない人にも存在そのものを意識できるか、と聞かれたら、あらゆる感覚も経験もないということは人格がない=人ではない、と答える。
 
 存在そのものは実在するが、存在そのもの以外の個物は存在にすぎず、しかしすべてが集まれば存在そのものになる。
 
 死とは、自分が思っていた方法での自分の存在の変化である。もしくは、自らの「存在する」性質以外の性質(個性)の変化である。

 無とは・水槽の脳とマトリックス

 
 水槽の中に脳が浮かんでいる。この脳は機械によって架空の世界を見せられ、その世界が実在していると思っている。この場合、なにが実在するのか?おそらく、「水槽の中の脳が実在する世界」と「水槽の中の脳が実在すると思っている世界」の両方が実在する。「水槽の中の脳が実在すると思っていて、その通り実在する世界」は実在しないが、架空の世界として実在する。

 似た話にマトリックスという映画があって、主人公は自分が実在する世界が実は幻覚だったと知る。では、その世界は消滅するのかというと、そうではない。「実在すると思っていたが、そうではなかった世界が実在したという思い出」が幻覚ではない本当に実在する世界に包まれるのである。

 無とは・物理的な消滅

 
 バナナは燃えると灰になる。かわいさはなくなってもかわいかった事実は残る。つまり、なにかが真に消滅することはない。なぜなら、バナナには「黄色い」「少しカーブした形」「存在する」という性質を持ち、かわいさにも「女性に多い」「人間に向けられるか動物に向けられるかでニュアンスが違う」「存在する」という性質がある。あらゆるものに「存在する」性質が実在し、それゆえに他の性質がどうであれ消滅しないのである。

 また、マジックで、目の前のトランプが消えたらあなたは「トランプが消滅した」とは思わずに「トランプが消滅したように見せるトリックが実在する」と思うだろうし、突然地面が消えたら「地盤沈下」みたいな自然現象の実在を思うだろう。

 無とは・空箱の中身について

 
 空箱の中にはなにもないのか。いや、なにもない空間がある。そうでなければ、空箱の中に手を突っ込めるわけがない。手を突っ込む先があるのだ。

 存在の表現・語りえるか

 
 存在そのものについては語りえない。理由は二つある。一つ目は、「存在そのもの」が「存」「在」「そ」「の」「も」「の」という漢字とひらがなを並べた日本語に過ぎず、つまり実際に存在そのものについて語っているのではなく存在そのものという言葉について語っているだけだからである。

 二つ目は、存在そのものの性質は「『存在する』だけである」=「存在そのものである」以外にあってはならないのに、もし語りえてしまったら「存在そのものとは語りえるという性質を持つ」ということになってしまう。だから、我々がいま行っている作業は、排除である。存在そのものについて語りえないのなら、語りえる存在そのもの以外を排除することで存在そのものを実質的・必然的に指し示すことができる。つまり、赤青緑のボールがあって、赤という言葉を使わずに他人に赤いボールを取らせるのなら、「青と緑以外のボールを取って」と頼むだろう。

 存在の表現・究極的には

 
 「存在そのものとは存在そのものである」という言葉は「存在そのもの」に縮められる。しかし、存在そのもの以外に存在するものはないので、つまり存在そのものとは存在そのもの以外のなにかが存在するという前提の言葉だが、そんなのは人間の勝手な認識でしかないので、さらに縮めると「存在」になる。「存在そのものとは?」「存在とは?」と聞かれたら「存在」としか答えられない。

 「存在する」という表現は、本当はできない。なぜなら、「する」とは動詞であるが、「しない」なんてことはありえない。また、存在そのものは動かない=変化しない。そのため、時間は実在しない。それは、時間の流れが実在しないということではなく、始まりも終わりもなく、それしかない。ということである。「それ」とは瞬間のことではない。瞬間とは他の時間と他の時間の間という意味であり、「それ以外」を想定しているからである。

 時間は「昨日」「今日」「明日」のような全体を持つ。しかし、もし今日しかなかったら、この瞬間しかなかったら、時間=この瞬間になり、時間の概念も消え、瞬間の概念も消える。「これ」であり「これ以外のすべて」としか言えない。もしくは、一瞬と一瞬以外のすべて。
 

 補足としての最低限の認識論・机度

 
 認識論に片足を突っ込んでいるかもしれない。

 机には机度がある。机度は四つの脚と一つの板で100%になる。板を取ると、机度は1~99%のどこかになる。その一方で、四本の脚度としては100%である。

 机度とは物理的な体積ではなく、机を机ならしめる要素である。もし体積であれば東京タワーも富士山も机になれるだろう。また、板を外したところで「机度の低い机」になってしまう。だが、板がなければもう机として使えない。しかし机を机ならしめる要素であるがゆえに、この四本の脚を半分に切って体積を減らしても「脚の短い机」として机度を100%に保ち続ける。

 ところで、四本の脚を四本の脚として認識できるのは、それに板を乗せた机を先に見ているからである。机を見ずに四本の脚を見た者の感覚は「(木製だとして)木の棒が四つある」だろう。そして、木を知らない者にとっては「茶色い棒が四つある」だし、色も棒も長いという形容詞も数字も知らない者にとっては「なにかがある」だろう。それでも「なにかがある」を知らないことは想定できない。動物でさえ「なにかがある」は分かるのだから。この「なにか」と「ある」が受動としての存在そのものと能動としての存在そのものである。

 また、たとえ四本の脚と一つの板がなかろうと机度は発生する。我々は空箱や大きな石を机として使うことができる。逆に、机であることを望まなければ空箱や大きな石はそのまま空箱や大きな石である。我々は、望むことによって、自分の都合がいいように認識することによって、あらゆるものを歪めている。歪みがなくなったときに現れ、それゆえに万人に考えを共有できるものが存在そのものである。

 机度はなにかに対し机であること要求すると発生するが、机度の増減は机として使いやすいか(机であることをどれくらい満たしているか)による。ところで、机といっても実際に存在する机はそれぞれであり、また、椅子が低ければ低い机が机として使いやすいので机度が高く、椅子が高ければ低い机の机度は低い。つまり、ここで言う机とは「今、ここで、(どのような)私が求めている机」である。そのため、「机」は実在しない形而上学的な存在であり、存在構造における存在Aと存在Bの間には「私の欲求/認識を叶え一致する一つのものしかない。であれば、それは存在Cかもしれないし、しかし存在そのものではないので俗存在と言ってもいいかもしれない。それか、俗存在そのもの。また、殺人鬼に追われているときは机を武器にするので机には武器度もある。では、その〇〇度とは潜在的なものなのか認識によって生み出しているのかというと、後者である。この認識は文化的にも培われ、ヒンドゥー教徒にとって豚には「聖なる動物度」が存在する。また、我々の認識が基本的に欲求に由来するのになぜ望まないものまでこの世に実在しているように見えるのかというと、世界が我々に、我々が生まれた瞬間に「世界内存在(ハイデガーと同じ意味かは分からない)度」を求め世界に実在し、しかし望まないものを見させるのではないかと思う。それは、他人の家に入ったときには知らないものや嫌いなものがあるが、その家の外がなければそんな他人の家に暮らすしかないのと同じであり、くつろげれば世界内存在度が上昇、居心地が悪ければ低下するだろう。しかし忘れてはいけないのは、実際にはこの家の外などなく、私もこの家の一部であり、この家の中に虐殺を肯定するような主義があるならば、それを排除して世界を平和と愛に満たしてもよいのである。塩おにぎりはたくさんの米粒の集まりだが、この米粒がすべてチャーハンになればチャーハンのおにぎりだし、たとえ一粒がチャーハンになろうともはやただの塩おにぎりではなく一粒がチャーハンの塩おにぎりだ。他人の家・自己という考えは心身二元論と主観・客観を作る。これは「みんなの家」である。世界内存在として欲されるということ=世界内存在度は、存在そのものを認めることであり、0か100しかないが、0はありえないので100しかない。存在そのものを認めるとは、その一部のすべて(存在そのものを構成するあらゆる一部)を認めることでもあり、たとえどれだけ嫌いなやつがいてもそいつを矮小化させることはできても存在を否定することはできないのである。

 追記
 
 世界内存在であることを求められるとは、「なぜそうなのか」と世界に問うたときに「なぜとかはなく、これはこうだ」と返されることである。世界内では世界内存在が半永久・半無限的に影響しあい、分析は不可能になっているからだ。そしてその「これはこうだ」を実在としてか解釈(妄想)としてかは分からないが受け入れるしかないということが世界内存在には求められる。
 
 机度が机を机ならしめる要素だとして、世界内存在度は世界内存在を世界内存在ならしめる要素である。世界内存在であることは、世界=存在そのものを認めることであり、意思のない電子レンジだろうと存在することによって(存在そのものの一部になることによって)存在そのものを認めている。
 
 認識者が求めることで度数が発生する。すべてを認識できるのは存在そのものであり、存在そのものは自らを構成するために存在そのもの以外個物たる人間も求めるのである。ただ、そこに求められているのは「話す」「道具を使う」とかの性質ではなく、「存在する」の部分でだけある。
 
 机を取ってこいと言われたら机をとってくる。その机には脚が四本ある、板が一つあるという属性があって、それが机度をもたらす。ただ、アメリカ製とか、装飾があるとか、余剰があるがゆえに、ここにある机を持って来れても机そのものを持ってくるなんてできない。

 余談・前回の反省を踏まえて変更した部分

 

 ・存在の性質について深く考えた

 前回は全体性と唯一性だけだったが、最小の存在と時間ついて考えるために必要だったのでもう二つ追加した。また、個別性はいままで一切使用しなかったが、発表の中で使用され「あ~あった方がいいか」と思い直した。

 ・最小の存在について考えた

 興味がなかったし、必要性もなさそうだったので、最小の存在については考えていなかった。しかし、発表を経て興味が湧いてきたのと、「たぶん最小の存在って存在そのものでもあるよね」という意見が気になったので一応考えてみた。

 ・時間に全体性・唯一性(前回の記事での意味で)を適用した

 時間は実在を証明できないから特に話す必要がない!終わり!ということで時間についてはなにも考えていなかったが、時間にも全体性と唯一性を適用できそうだったしそれで実在しないことを証明できそうだったので一部ではあるが時間の話を入れた。

 ・机度を深く考えた

 文芸サークルの集まりでどんな記事を書くのかと聞かれたので机度の話をしてみたら、「なんで脚を脚として認識できるの?」と鋭い指摘をされ、それでインスピレーションを刺激されたので考察を深めた。

 ・机度から世界を考えた

 認識論に片足を突っ込んでいるが、存在と世界の関わりを考察した。

 ・一部という表現を構成するものという表現に変えた

 存在そのものは存在そのものの一部である、とは言えないので(一部どころか全部なので)、存在そのものは存在そのものを構成するものである、と言えるようにした。

 ・実在という表現を加えた

 存在にもいろいろな方法があるが、それでも事実である(もっとも高等な存在方法である)、本当の(厳密には&実際には本当だと思っているにすぎない)世界にある、という存在方法のことを実在と表現した。

 ・ブロック分けを変えた

 前回のバラバラのブロックを、今回は二段階のブロックを使用することでまとめた。

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