医学部を諦めて10年以上経った男の話~大学編~
まずはこちらもご参照ください。
(1)医学部を諦めて10年以上経った男の話~イントロ~
(2)医学部を諦めて10年以上経った男の話~発起編~
(3)医学部を諦めて10年以上経った男の話~浪人編~
大学編と言っているが就活が鬼長くなりそうなので、医学部以外にいった大学生活の鬱屈した日々を記載する。
お時間ない方のエグゼクティブサマリとしては以下です。
医学部以外の大学に入学し、開始早々で辞めたくなるも、様々な障壁があり一旦卒業して医学部学士編入の道をめざす。
大学3年のある日、とある学生団体に所属していた医学部にいた友人Aとの交流で、就職活動もしてみんと欲す
引き続き長文なので、これだけで良いです。
大学編 はじまり
医学部に落ちて、彼女にもフラれた大吉(一人称)は、医学部以外の大学生活を余儀なくされる。
通って1ヶ月経過して、こう思う。
あ、もう、ダメだ辞めよう。
※1 布瑠部由良由良(ふるべゆらゆら)
※1 まずは誤解なきように、通った大学(慶應大学環境情報学部、以下SFC)がダメというわけではないことを弁明させていただきたい。
むしろ、結果として4年間通うことができたのは、SFCだからというのが大きい。それくらい素晴らしいのだが、その当時の自分の気持ちは辞めたかった、ということで、どうかひとつお願いしたい。
・・・
・・・
・・・
後味悪いので、余談に続く余談だが、SFCの何が素晴らしいのかとりあえず明記しておく
・ど田舎
・必須科目から専門まで何から何まで自由
・人間関係が希薄
SFCは豚の香り華やぐクソ田舎なので、田舎出身の自分には親近感がもてたこと。都会の喧騒とそこにいる人達が苦手なんすよね。
また必須科目なんてものはほとんどなく、それ以外何やっても良いというのが興味関心の赴くままに単位がとれた。これが次に良かった点。
そして、この自由に科目選択できることともつながるが、必須科目が少なく授業の重なりが少ないから人間関係がかなり希薄になる。
これも良かった。
年食って入ったうえに、医学部落ちという劣等感から、ただでさえ
ATフィールド(A:あなた達とは T:立場が違うんですフィールド)
という防衛本能をまとっていたので、
クラス単位で行動させられ、どの科目も数年同じメンツとかだったら、発狂とともに憤死していたと思う。
なので、田舎で、自由に勉強ができ、人間関係の取捨選択ができる。
これが自分の考えるSFCの良かったところだ。
・・・にも関わらず、やめようと思ったのは、
・暇
・医学部以上にやりたいことが見つからなかった
この2点。
まず、とにかく暇。
予備校時代のほうが忙しかったくらい、大学って暇。
これは、たまげた。大学ってもっと忙しいと思っていた。
例えば、単純に進級単位をとるだけなら毎日2つ(2コマ×2単位×5日=20単位)授業でれば良い。最大でも半期で30(だったと思う。)なので、+5コマ追加される程度。
たったの3時間。朝から連続で授業とれば昼には終わる。
もちろん課題とかグルワ(※グループワーキングと言う名のタスクのなすりつけ合い地獄)とかなんやあるが、最終課題でもない限り、そんな大したものでもない。毎日コツコツやっていればスグ終わる。
この暇な時間が、自分はこのままここにいていいのか?という疑問を増幅させた。
加えて、やりたいことがなかった。
SFCは色んなことができるようだが、正直どれも医学以上にピンとこなかった。
(今、思うともっとやっておけば良かったことが盛りだくさんなのだが…重回帰・多変量解析とか、AIにつながるものとか…)
かろうじて、受験時代は医学部かつ生物選択だったので、バイオインフォマティクスの領域が気になったが、主にインフォマティクス領域が全く興味をもてず最終的には離脱した。
夢中になるものがなく暇になって考える時間が増え、結果として、上記の「辞めたい」という思考になった。
4月上旬くらい少しづつ思い始めて、下旬には確信に変わった。
仮面浪人or退学か迷っている状態。
しかし、そんな矢先、事件が起きる。
家族が増えるよ!!やったね大吉!
自分が入学して早々、、、母親が再婚した。
自分も本当にわからなかったが、事実である。青天の霹靂。
母親いわく、家族の中で不安分子だった私が、ようやっと大学に入って進路が決まり安心できたので、再婚に踏み切ったのだという。
さて、どうだろうか?
こんなこと言われて
「あ、さーせんww デュフフww あの拙者、大学辞めてやっぱ医学部めざすでござるww 言っちゃったww フォカヌポウwwww」
とか言える人がいるだろうか?
私は言えない。
自分のせいで我慢を強いられて、それがようやっと解放された母親を目の前に、自分のわがままを貫き通せるほど空気の読めない人間ではなかった。
もう、こちとら二十歳過ぎているいっぱしの大人だし、一応、流れている血は赤いのだ。
長い間迷惑をかけて、バカ息子から言えることは一言だけだ
「母ちゃん、幸せになれよ」
どうすんだよ、こっから先
とまぁ、こんなキレイにおわるほど、事は単純じゃない。
とにかくもう学校や家には、帰りたくない
と15の夜の気持ちで、今にも盗んだバイクで走り出しそうな気持ちが渦巻いていた。行き先は、この際、地方でも国立医学部ならどこでもいいと思っていた。
横たわる課題は2つ
・予備校やら、入学費やら受験に関わる金がない
・大学はやめられない
である。
まず、とにかく金がなかったのだ。
諸々入学金で浪人時に貯めていた貯金は尽きたし、SFCの学費は全額奨学金を借りていたし、バイトで稼いでいたが(約10万)一人暮らしの生活費でほぼ全て消えていたので、予備校やら何やら受験に関わる費用を捻出するには1年では到底無理だった。
そしてもう一つは(こっちのほうが重いが)上述のとおり、今この大学を辞めるわけにはいかなかった。
どちらにせよ親に頼ることはできない。
悩みに悩んだ自分に、調べてみると、医学部には学士編入試験というものがあることを知った。
学士編入試験…
つまり、医学部以外の大学を卒業した人向けの試験で、合格後は医学部の2年or3年次に編入できるというものだ。
編入学年は大学によるが、ほとんどが2年。
これには、まるで地獄に仏、蜘蛛の糸の如くすがりついた。
特に、このメリットは
・今の大学の単位や授業料が無駄にならない
・通常の大学受験と異なり、国立でも何校でも受けられる
ということで、当時はかなり興奮した。
もちろん、デメリットもある。むしろ、冷静に考えるとこっちのほうが多い。
まず募集人数が大学受験より圧倒的に少ないこと。
大体5名、多くても10名程度だった。
次に難易度。
当時調べた範囲で情報発信している合格した人のほとんどが東大出身、もしくはそれに準ずるような大学院出身だった。
要はそれくらいレベルが高く専門的な試験問題になるだろうことが容易に予想できたが、一方で過去問含めて情報がほとんどなかった。
そして、こんなに頑張っても2年次に編入という、結果4年通った大学を1年しか短縮できていない。
だったら、今からちゃんと浪人して大学受験で入ったほうが早いのだ。
普通に考えればわかることなのだが、その時の大吉(一人称)は、
と、この考えに取り憑かれ、もうこれしか選択肢がないとすら思っていた。
貧すれば鈍する
とはよく言ったもので、当時の自分は、日々の生活苦と決断しなければならない焦りでこの考えしかない!と決めつけていた。
最も現時点で金がなかったので、4年間にお金貯めて受験費用を捻出できる点では、良かったのだが、それにしてもデメリット多いので、これが最善解は言い難い。
まぁでもしょうがない当時にスペックだとこの程度なのである。
んで
そうと決まれば各校の募集要項を調べると、基本は理系学部出身を対象にしているせいか、出願条件に理系科目の単位を一定取得しなければならないことがわかった。
一般教養の数学とか生物系とか化学系とか。
これらの科目はSFCでもある程度のとれるのだが、安全パイの意味でも、理工学部に転部したほうがよいかなと考え、まずは理工学部への2年次編入を試みることにした。
よーし、理工学部に俺は、いく!
理工学部に転部するぞ!
結論から言うと、1週間もかからずに、この考えは捨てた。
つまり、一瞬で、この考えをやめたのである。
理工学部の転部なんてやめるぞ!
理由は意味がなかったのだ。
なんでかというと、俺たちの慶應大学は
・単位交換制度
という、素晴らしい制度があって、SFCに在籍しながら理工学部の単位がとれるのだ。もちろん、実験とかゼミとかその学部在籍者特有の科目はダメらしいが、詳しいことはよくわからない。申請して各学部にいる窓口の教授みたいな人がOKしてくれれば良い感じだった。
そして、医学部は全部ダメという聖域化されていることだけ、とりあえず追記しておく。
通常の、医学部学士編集試験に必要な座学的な科目は転部しなくてもとれることがわかったのだ。
だから転部する意味がなかったのだ。
少し調べればわかることだったのに、当時、如何に盲目的かつ焦っていたことがよくわかる。
わざわざ本丸じゃない学部に転部試験の準備をして、SFCよりも高い学費の理工学部にいくとか時間と金の無駄でしかなかった。
4年時には実験とかゼミとか卒論とか、SFCよりも拘束が厳しく、本目的の学士編入の対策に時間がなくなりそうなのも懸念点だった。
なので、転部は辞めてSFCで過ごすことを決断した。
ここらへんもう、とにかく以下の一言につきる。
それからの日々
とにかく勉学には励んだ。
ただの自慢だが、GPAは4を最高とした評定で3.9くらいと取得した単位は、ほぼA(優)だった。
3年次には理工学部にいったが、そこでも全部Aをとった。
体育ですらAだった。
医学部受験を経験した杵柄で、勉強することには何の抵抗もなく、勉強の仕方についてもある程度「型」ができていたから余裕だった。
そもそも、医学部を目指していたから基礎があったので、そんなに難しくないというのもある。
学士編入試験でどこまで使われるかわからなかったが、とにかく成績が良いことに越したことはないだろうと判断し、ひたすら成績を上げた。
勉強を中心に、他はバイトやサークルなど色々やっていたが、
ここで転機が訪れる。
参加した経緯は今となってはよく覚えていないが、誰かの紹介でとある学生団体に所属することになった。
そこは、慶應の各学部から集まって、大学を盛り上げるぞみたいな団体だった。
頭悪い表現で恐縮だが、本当にそんな感じだった。
各学部なので、医学部の学生も当然いた。
慶應医学部・・・自分が落ちた因縁深い学部である。
そこで知りあった、とある医学部の学生との出会いが、
自分のもう一度医学部へいきたいという考えを変える契機になった。
学生団体と夢と就活と
とある学生団体にいた医学部の学生を、ここでは仮にAとしよう。
Aは、医学部のわりに(と言ったら失礼か?)勉強よりもこうした課外活動に熱心な人物だった。
後々に聞いたが、元々は医者ではない職業になりたかったのだという。
国立は東大理一に受かっていたのだが、腕試しで受けた慶應医学部に受かってしまい、親に説得されて泣く泣く慶應に入ったという経緯の持ち主で、医学部落ちの多浪からした卒倒してしまいそうな経歴の持ち主だった。
そんなんだから、医者になることにさほど情熱がなく、なんなら医者よりもベンチャー企業を立ち上げたいとかのたまわっているような人間だった。
最初は、端的にいって嫌いだった。
この学士編入をしようとしてまで医学部に未練タラタラな自分にとって、彼の存在は、非常に妬ましかったのだ。
だったら、その資格を俺にくれよ、と何度も思った。
ただ、彼と交流を深めていくうちに、上述した背景や、明るく竹を割ったよう性格や人となりもわかってきて、徐々にAもAなりに色々悩み迷っているんだろうなということに共感して親近感が湧いてきた。
そもそも、性格面でも自分とウマがあった。
特に、その学生団体の中でもひときわアツい人間だったので、そういう人間が好きな自分は、彼と夜通し色んなことを議論して過ごすなど、より一層信頼するようになった。
また、純粋に頭が良い人間なので(医学部だから、当たり前なのだが)、話しをしていてすごく刺激になった。
そこで、ある夜、
「自分は卒業したら、もう1度医学部にいきたい」
という夢を話した。
あまり周囲に話したことがなかったが、酒の力もあって、Aに今までの自分の経緯を含めてポロッと愚痴っぽく言ってしまったのだ。
今でも覚えている。
Aはすかさず
「もったいない!」
と言ったのだ。
何が?と思ったが、彼いわく、要は全部もったいないというのだ。
時間も、金も、能力も、リソース・資産と呼べるものが全部無駄になってしまうと言った。
「俺なら絶対に就職する」
とも言った。
彼は、上記の理由からあまり医者に興味がなく、だから客観的に医療界を分析していて、それがどれだけ小さく、退屈なのかを理解していた。
むしろ、それ以外の世界のほうがよっぽど面白く、規模も大きいから楽しいことがいっぱいあると説いてくれた。
これが何気に自分の心の響いたのだ。
正直うと、この手の話だったらSFC内でもされていた。
SFCは、その受験科目の特徴からか自分のような医学部落ちが何人かいた。
特に、予備校に何年も通っていたような多浪もいた。
最初は、そういう人たちと交流をしていたが(傷の舐めあいとも)、だんだんと
「俺は、あなた達とは違う」
という考えにとらわれていった。
失礼を承知で率直にいうと、
本当に医学部目指していたのか?
というくらい彼らのレベルが低かったのだ。
要は、彼らは私立ですら医学部のどこも受からなかった人間たちで、自分は曲がりなりにも日本医科大学に受かっていたこともあり、(変なプライドなのは百も承知だが)この1点で壁があった。
また、自分は金銭的理由で辞退しなければならなかったが、彼らは受かっていたら通えるだけの恵まれた家庭にいたことも、この考えを強くした。
実際、大学でも自分とは異なり、お世辞にも真面目とは言えなかった。
(余談だが、各医学部が多浪生を敬遠していた理由が、留年率が高いからと言っていたようだが、本当にそんな感じだった。
自分のようなアホ高校出身でも、1年必死こいて勉強してある程度成績を上げられたのに、有名進学校出身なのに何年もやって受からないというのはそういうことなのだろう。)
だから、彼らに、自分が医学部をもう1度目指すことを言って、
「まだ諦めてないの?」と非難されたり、逆に「すごいね!」と称賛されても、どちらにせよ違和感があって何も響かなかった。
だけど、Aの言葉は違った。
自分が渇望している医学部に在籍し、自分のこともある程度理解してくれた上での、この言葉には重みが違ったのである。
就職…その言葉がはっきりと心に刻まれた瞬間だった。
大学3年の夏くらいのことである。
気持ちが流転する日々
かと言って、すぐに何か動くこともなく、ぼんやりと就職が頭に浮かびながらも特に行動にはうつさず、学士編入試験の準備を中心に過ごしていた。
3年次は理工学部にほぼ在籍していたのだが、生化学や有機化学、流体力学などをシコシコ勉強し平行して学士編入に必要な細胞生物学と英語を独学でやっていた。
理工学部は人数が少なく、学科単位で4年間一緒のようで、どの授業うけても、同じグループが毎度同じように固まってて、
転部しなくて良かった
と心の底から思った。
しかも、授業が黒板にチョークと、まるで高校の延長みたいで、自分的には地獄絵図だった。
座学しかとっていないから、こんなもんなんだろう。
理工学部で勉強し、終わったら上述の学生団体(日吉か渋谷で集まることが多かった)と、大学3年の日々はそれなりに充実していた。
その学生団体で、とあるイベントをやることになった。
内容は伏せるが、まぁ学生っぽい交流的なイベントだ。
が、運転資金がない。
イベントをやるにしても、ハコ代やゲストを呼ぶのに金が必要なのだ。
この団体のメンバーでカンパも検討したが、限度があった。
1人10万以上必要な計算で、学生が払うには高すぎたし、何よりメンバーから同意を得られなかった。
また、非公認の団体なので、大学から活動資金なんてもらえるわけもない。
参加者から参加費を徴収すれば良いかもしれないが、この手のイベントは集客面が一番の不安だったので無料にしたかったのだ。
さぁどうっすかな?とメンバーと議論を重ねて、最終的に
「企業から協賛金を募ればいい」
という結論になった。
企業のCMや広告を参加した学生に向けて展開するので、その費用をもらえないかという話だ。
そこで、何を血迷ったのか自分が動きだした。
なんというか、上述の成績同様、やるからにはちゃんとやりたい性分なのだ。自分が関わるのにショボイ結果にしたくなかったのだ。
そこで、企業ごとにメリデメを提示したプレゼン資料の作成から、テレアポ(メールアポ)など営業活動を必死こいてやって、なんとか費用の捻出をすることができた。
自分がすごいというよりは、慶應の看板ってすごいなと、今となっては思う。
慶應の学生というだけで、企業の広報担当の方々はとりあえず話は聞いてくれたし、資料も目を通してくれた。何より、慶應の学生に対してアプローチができるというのが企業側にもメリットがあったようだ。
結果として、こっちが希望した金額よりも低いことはあっても、断られることのほうが少なかった。
イベントの成否は参加者にしかわからないが、団体内では、初めて出せた結果にそれなりに盛り上がり打ち上げも派手に暴れた。
二次会三次会四次会と続き、最後はよく覚えていないが、なぜかAと二人で明治神宮あたりを酔払いながら歩いていた。
夜中の2時~3時くらいだったと記憶している。
Aはしきりに今回のイベントで、費用を捻出できたことを褒めた、、、というよりは、スゴイスゴイと感心しているようだった。
そして、ここでもまた
「もったいない」
という言葉をはいた。
「ビジネスやったほうが絶対良いよ。もったいない」
と言った。
今回の一件をみて、彼も自分はビジネスのほうが向いていると思ったのだろう。
実際、自分も楽しかったのだ。
相手に何を提示すればのってくれるかを考えながら資料をつくり、それをプレゼンして、話しながら駆け引きをしている時は刺激的ですごく楽しかった。
また、結果、お金を貰えた時は、飛び上がるほど嬉しかった
自分も、それなりに価値があるのだと感じられたからだ。
とは言っても、浪人からかれこれ5年熟成された医学部への気持ちはそんな簡単には臭いもとれず、
「そうは言っても、自分は医者になりたいんだ」
と返すと
「医者になりたい医者になりたいというけれど、医者になって何したいの?」
まるで面接みたいなことを聞かれた。
が、なんと、この時は返答に困ったのだ。
本当に困った。何も言えない。
何がしたい…あれ?何がしたいんだろう?
いつの間にか自分は、医学部を受けることが目標になっていて、その先が見えていなかったのだ。
また、かろうじて想像したとしても、元々研究なんて興味なかったし、かといって病院勤務も楽しいだろうか?
この学生団体のメンバーが真の意味で意識が高いこともあり
(実際、その後、慶應にしてはすごい会社に就職するほど皆優秀だった。)
「患者さんを救いたい」
なんて器の小さいこと(補足。立派な志だが、その時の自分はそう思っていた。)言うのが、恥ずかしかったのもある。
世界を舞台に活動しようとしている、この団体のメンバーたちと比較して、
医者になってからの自分がやりたいことがひどくちっぽけなものに思えてしまったのだ。
この活動を通して出会った人々のおかげで、刺激と興奮に満ちた日々が、自分の中で大きな視点みたいなものが得られたんだと思う。
質問は返さず
「自分みたいな年くった人間がまとも会社に就職できるはずがない」
と、兄から教わった呪いの金言を言うと、彼特有の食い気味な返答で
「それちゃんと調べたの?」
と、すかさず返ってきた。
よく考えたら又聞きなだけで、証拠なんて一つもなかった。
何より、やる前から諦めている態度は、優秀な人たちが集まる団体の中でタブーとなっていたのに、自分がそれをやっていたことに気づいて恥ずかしくなった。
やる前にできないと考えるのは、ただの思考の怠慢なのだ。
やってできないことはないし、できる方法を考えるほうが建設的なのだ。
そんな感じでAと話して帰る道中に、自分の中で気持ちの変化が起き、
いっちょやってみるか
と就職活動について本格的に行動するに至る。
季節は、大学3年も終わりそうな12月。
うすら寒い中歩いていたが、思考だけがやたらと先走り、目は冴えて、
心はアツク燃えていた。
(続く)
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