見出し画像

手書きメモ推し 映像喚起と文字のタダならぬ関係

 日常的に、創作に使えるかもとか、思いつきや気になる外国語などを貯めてメモしたりしている。テレビで流れているものも、間に合えばメモる。
 ある時、「ビーボルニェー!」とテレビから聞こえてきた。海外の動物園を紹介するある番組でアシカの芸に「よくできたー」という意味で使っていたチェコ語だった(と説明された)。片仮名で字幕が出たのだが、本当はどんな単語なのか知りたくて仕方なくなった。動物相手に言っているせいもあってか、とても優しく可愛らしい響きだったからだ。片仮名でメモした。
 別にチェコ語に特別な興味を持っていたのではない。チェコにも行ったことがあるが、その時は挨拶くらいしか使わなかったし、文法も何も知りはしない。しかし、ポケット版チェコ語-英語/英語-チェコ語辞書を現地で購入していた。そして英語で「よくやった」に近いとしたら何かをまず考える。Well done! Great! Good Job! Fine! Nice! … 「ビーボルニェー」に近い単語は出てこない。「ビ」じゃなくて「ピ」だったのか? チェコ語の「B」と「V」と「P」を頭にしている単語を、その次の綴りを適当に考えて探す。何か語尾変化するのかも? そもそも「V」をチェコ語で濁るかどうかすら分からないままに引く。Vの項に似ているようなものもあるが、どんぴしゃは――ない。

©Anne KITAE

 結局、ネットに頼る。日本語「よくやった」で検索かけたら、一発で出てきた~。
 Výborně! 
 猫語みたい! 可愛い響きじゃないかいな。
  で、しつこく辞書に戻って、このチェコ語を英語で何というのか調べる。
 Excellent!
 ふん。
 ちなみに辞書の見出し語は výborný。あー、やはり語尾が変化していたのか。
 ビーボルニェー! 何回も言ってみた。やっぱり可愛い。
 人に使っても通じることは殆どないと思うが、時々言ってやろう。動物でもいい。
 そんなお遊びが好きだ。

 メモノートには、そういうお遊びネタも結構貯まる。日本語も、英語も、何語か分からないものも。何で書いたか分からないものも多い。どうせ何にも使えないことも。それが殆どかも知れない。それでも今や自分の思考すら脳から外付けストレージに預けてしまう風潮の中で、きったない文字(時々、自分でも読めない)にして手許に遺しておくのも棄てがたい方法なのだ。(単に年代的に古いだけ、と言われそう。)既に1週間前に何をしていたか覚えていられないような状況で、自分の文字を見返すと何を考えていたか思い出したり、過ぎた時間を引っ張り出すのに有効だ。
 とは言え、10年以上前のものを見直しても、古びてただの思考の断片になってしまうこともある。一方で、本の感想ノートや、コンサート、展覧会、旅行中に書き溜めた日記風のものは、時間を巻き戻して考え直す機会を与えてくれもする。過去には何の衒いもなく書いていたものが、今この時、思いも寄らない世界情勢と照らし合わせると「ああ、あの頃萌芽はあったなぁ」等を呼び覚ますことも。結構、思い出せるものである。
 自分が文字で書いたものを見てみると、写真に撮ってなくても、地図を思い描ける土地もある。何でだろう?
 今では文字も、「入力」に頼ることが多くなった。自分もそう。けれども、できるだけ、メモレベルは手書きする。脳活のためにも良さそうだし(「入力」によって漢字は書けなくなるし、言葉を思い出しにくくなる。誤変換に気付かなくなる)、あの辺に書いてある、などの紙における質量の感覚は、肉体的に必要だと思う。現在では漢字の書き順なども滅茶滅茶になっているようだが(学校教諭が、黒板に「国」を書くのに、口を書いてから中を入れるなんていうのも見たことがある)、字を書く身体性は精神的な言葉の定着に必要なことのように思える。今や小学生もタブレットの時代が到来したが、特に子供は手書きの癖をつけておいた方がいいぞ。やや脱線するが、結構前から中学校で英語の筆記体を教えなくなっているそうで。いかがなものかねぇ……。

 今、早朝というか、深夜というかの時間帯で、本邦の国営放送の地上波、衛星放送どちらでも、「ヨーロッパ トラムの旅」を放送していることがある。取り上げられている都市はベオグラードだのベルリンだの、ヘルシンキ、プラハ、ウィーン、ソフィア、クラクフ、ブダペストなんかで、超人気スポットだったりはしない。が、私は全部行っていて、町並みを覚えているんだな、これが。無論、トラム全線に乗った訳ではないから、全ての風景を見知っているのではないが、「そうそう、そこを曲がると、旧共産党本部の建物だよねー」なんて先回りする。映像だと尚のことよく思い出せる。知ってる、知ってる、の心地よさよ。いかん。文字の大事さを話しているのに!
 ああ、そうそう。だからね、文字から絵を立ち上がらせる能力が、劣化してしまうと思うのだ、読んだり書いたりしないと。(「読む」ことについては、拙書『物読むものたち』をお読みいただければ幸いです…。)

 文字・映像の脳内記憶貯蔵庫は、別々の部屋ということらしいが、一体どんな遣り取りで、互いに引っ張り出しをしているのだろう?  とにかくバランスが大事なのは間違いない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?