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2年経ってもペットロスからあんまり立ち直ってないって話

一昨年の3月。15年間一緒に暮らしてきたミニチュアダックスの女の子、クッキーが遠くに旅立ちました。世の中の新型コロナ騒ぎがいよいよ本格的になり始めた頃のことです。

このテキストは、その2年近い時間、ずっと心の中に積もった澱のようなものをただ吐き出すために書きます。
楽しくもないし面白くもない、構成もめちゃくちゃで、ただ自分の感情を吐き出して文字にしただけの、暗くてしんどい文章です。

だから、そういうのが苦手な人は、ここから先は読まないでくださいね。

愛犬が「死ぬ」ということについて

愛犬との死別について、「死ぬ」ということをどう言い表すのが相応しいのか、正直いまだによくわかりません。
「死にました」っていうのはさすがに違うと思うけど、「亡くなりました」もなんだか違う。でも、「お空に旅立ちました」とか「虹の橋を渡りました」とかっていうのも、ぼく個人としては、なんだか違和感があるんです。
だから、「遠くに旅立った」と言うことにします。

虹の橋の話。いいですよね。一緒に過ごした大切なペット(この言葉に異論がある人もいるだろうけど、ここはわかりやすくペットとします)との別れの悲しみや苦しみ、辛さを少しでも和らげる物語。ぼくもきらいじゃないです。いつかぼくが死んで、虹の橋の向こうでクッキーに再会できるなら、それはとても素敵なことだと思います。
でも残念ながら、実際にクッキーを失ってしまった時、ぼくはそのファンタジーに慰められることはないと気付きました。単に、ぼくの心がひねくれているだけなのかもしれないけど。

クッキーと出会ったときのこと

クッキーは売れ残りでした。
今となっては記憶も曖昧だけど、娘のクリスマスプレゼントに「犬を飼おう」ということになり(というか、ぼくが独断で決めた)、近所のペットショップに行ったんです。今のぼくなら、ペットショップで犬を飼うことはないと思うけど。
ペットショップのケージの中で、その子は正直、パッとしない感じでした。チョコダップルのミニチュアダックスの女の子。7月27日生まれで、その日はもうクリスマスイブとかだったので、生後5ヶ月ぐらい経ってます。仔犬のコロコロとしたかわいさはすでになくなりかけてて、妙に間延びした感じで、おまけに舌が半分ちょん切れてる。いや、本当に半分ちょん切れてたんですよ。
ショップのオーナーさんがいうには、ある朝バイトの女の子が店に来たら、ケージの中にうっかり入れたままになっちゃってたタオルが首から頭にかけて、結んだみたいにぐるぐる巻きになって解けなかったので、タオルをハサミで切ったんですって。そしたら、舌まで切っちゃった、と。

そういう事情もあって売れ残ってたんです。仔犬のかわいい盛りを過ぎると、売れなくなっちゃうんでしょうね。おまけに舌がちょん切れてるし。ケージの中でポツンとしてました。
スタッフが舌を切っちゃったことに責任を感じてたのかもしれないけど、「この子は、すごく性格も良くて」とか「かわいいでしょう?」とか、オーナーさんもすごくアピールしてくるんですよ。「この子に決めてくれたら、◯万でいいですよ」まあ、正直それが決め手になったっていうのもあったかもしれないですね。でも、うちがこの子を引き取らなかったら、この子はこの先どうなっちゃうんだろうなっていう気持ちも少しはあったかもしれません。
娘に「どうする?」って訊ねると、「この子がいい!」というので、「じゃあ、この子にします」。
そんなわけでクッキーは我が家にやってきたのでした。

まあホントにいろいろあった

最初のうちは、自分のウンチを食べたりして(食糞ってのは、まあ、仔犬にはよくあることです)、犬を飼ったことがなかった妻は激烈な衝撃を受け、半ばノイローゼ気味に陥りかけたりもしました(笑)。
まあ、食糞もすぐにおさまって、妻の育犬ノイローゼも解消されました。
最初のうちはごはんをあげる時に「おあずけ」を教えようとしたりしていましたが、途中から「ま、いいか」と。なので、おあずけも、お手も、おすわりも、伏せも、なーんにもできない(というか、教えなかった)ままでした。
でも、決して頭は悪くなかった。クッキーは、ほとんど(というか、まったく)吠えない子でした。無駄吠えどころか、あの子が犬らしく「ワン!」って吠えたところなんて、結局一度も聞いたことがありません。もし吠えたら、どんな声だったんだろうなあって思います。

よく病気にもなったなあ。
最初は5歳の頃にヘルニアになって歩けなくなりました。ある日突然、後ろ脚を引きずるような状態になって、ちょっとした段差も越えられなくなっちゃった。ダックスは胴が長いので、他の犬種よりも背骨に負荷がかかりやすくて、脊椎ヘルニアになる子が多いらしいですね。歩けなくなるかも、と言われたものの、手術したら見事に完治して元気に走り回れるようになりました。
その数年後に、今度は自己免疫性の貧血になったり、血液検査で何かの数値がとんでもないことになったり、もはやよく覚えてないけどとにかくいろいろありました。そのたびに「もう今度は本当にダメなのかな・・・」って思ったものの、なぜか毎回奇跡的に完治して元気に。
まあ下世話な話をすれば、病院代や薬代にはびっくりするくらいお金がかかりました。ペット保険に入っておけばよかったと思った時は、もはや後の祭り。
元気だったクッキーも、さすがに12、3歳の頃からは耳もあんまり聞こえなくなり、目もほとんど見えなくなって、寝てばっかりでした。でも食欲はしっかりあったし、けっこう普通に元気で、ぼくが帰宅するといつも玄関に大急ぎで出迎えてくれていました。
家族の中でもぼくには特によく懐いていて、自分で言うのもおかしな話ですけど、ぼくがいちばんクッキーとは通じ合えていた、そんな気がします。

お別れの日のこと

最後は本当にあっけなかったです。
いつもと変わらない様子だったのが、ある日突然ぐったりして。床にへたばった状態でしんどそうにウトウトしてるのを、明け方まで水を飲ませたりして過ごしました。朝になってすぐにかかりつけの動物病院に連れて行くと、そのまま入院。その日の夜中に病院から電話がかかってきて、クッキーが旅立ったことを告げられました。
病院に迎えに行くと、箱の中に入れられて小さく丸まっている姿は、月並みな表現ですが、本当にまるで眠っているようでした。穏やかな顔で、気持ちよさそうに。
肌寒い3月の真夜中に、クッキーの入れられた箱を抱えて、家までの道を家族3人で泣きながら歩いて帰ったことは、一生忘れないでしょう。
空気が冷たくて、星がたくさん見えて、とても静かで。
朝、ぐったりしているクッキーを抱いて歩いた道を、今はこうして小さな箱を抱えて歩いている。病院に連れていくときは、すごくしんどそうだけど「きっとまたすぐに元気になるだろう」と思っていたのに。
頭の中は、悲しみとかさびしさよりも、「どうしてこうなったんだろう」という疑問と、「もっと早く変調に気づいていれば、こんなことにならなかったのに」という後悔でいっぱいで。

その道を夜に歩くと、あの時の気持ちがよみがえって自然に涙が出て止まらなくなってしまうので、夜はそこを通らないようにしています。

もしも、もう一度会うことができるなら

悔やまれることは数えきれないくらいあります。
もっと一緒に遊んでやればよかった。
もっと散歩に連れて行ってやればよかった。
もっと抱っこしてやればよかった。
もっと早く病院に連れて行けばよかった。
最後に家族と離れて一人でさびしかったんじゃないだろうか。
みんなどうしてそばにいないんだろう、って思いながら旅立ったんじゃないだろうか。

謝りたい。
もしも、もう一度会うことができたら、ごめんねって言いたい。

最初の半年ほどはずっとそんなことばかり考えていました。
仕事をしていても、ごはんを食べていても、車を運転していても、テレビを見ていても、気がつけばそんなことを考えては泣いていました。
どうにもならないことをぐるぐると考えては、自分を責めて、悔やんで、泣いて。その繰り返しでした。

でも、ある時ふと思ったんです。
こんなことばかり考えて泣いてるのは、クッキーに対する思いじゃなくて、そういうことに悲しんで苦しんでいる「自分」がかわいそうだって思ってるだけなんじゃないのか。
それに、そういうふうに考えてばかりいたら、まるでクッキーはかわいそうな犬だったみたいじゃないか。

クッキーは、きっと幸せだったはずです。
そりゃもちろん、あの子なりに不満もあったでしょうし、しゃべることができたら文句を言いたいこともたくさんあったかもしれません。
でも、クッキーと一緒に過ごした15年間のたくさんの思い出。忘れることのできない、楽しかったこと、おもしろかったこと。それはきっとクッキーにとっても、同じように大切で幸せな思い出だと思います。
舌のちょん切れたミニチュアダックスの女の子は、たまたまうちの家にやってきて、いろんなことがあったけど15年間一緒に過ごして、それなりに幸せだったんです。

実は、このテキストを書き始めてから半年以上経ちました。書いていると、涙がボロボロこぼれて書けなくなるので。いまもこれを書きながらずっと泣いています(笑)。
後悔する気持ちが消えたわけではありません。きっとこれから先もずっと、苦くて冷たくて重たい塊みたいに心の中に残り続けるでしょう。それを抱えて生きていくしかないと思っています。

だけど。
いまは、もう一度クッキーに会えるなら、ごめんねとは言わないでしょう。

クッキー、ありがとね。

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