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タクシーの運転手さんに「がんばって」と言われた話

会社勤めを辞めて、独立して今年で13年目になる。
フリーランスになってからいろいろと変わったことはあるが、そのうちのひとつが「タクシーに乗る機会が増えた」ことだと思う。
決して贅沢をしているわけでもなければ、ましてやセレブぶっているわけでもなく、単純に時間節約が最大の理由だ。大阪は縦横に地下鉄が走り、JR環状線がぐるっと周りを取り囲んでいるものの、意外とアクセスの悪いポイントがある。東京に比べて小さな街なので、そういうところに行くにはタクシーに乗るのが一番手っ取り早い。会社員と違って、経費精算の手続きなど面倒なことがないのも、気軽にタクシーに乗ってしまう理由のひとつかもしれない。


数年前、タクシーに乗ったときの話。
流しのタクシーに手を挙げた。ドアが閉まり、運転手さんに目的地を告げる。30代半ばくらいだろうか。かなり若い運転手さんだ。走り出してしばらく経った時、彼がバックミラー越しに「お客さん、前にも乗っていただきましたね」と言う。

自称人間嫌いのぼくだが、実はタクシーに乗ると自分から運転手さんに話しかけることが多い。短い時間とは言え、密室の中でむっつりと黙り込んで過ごすよりは、当たり障りのない世間話でもする方が気分がいい。それに、タクシードライバーという職業だからこそ見えているものや感じていることがあれば、そういう話を聞くことができるのはけっこう貴重な機会だと思うのだ。
しかし、運転手さんと話はしても、こちらからはほとんど顔は見えないし、なによりぼくは人の顔を覚えるのが非常に苦手なので、こっちはさっぱり記憶にない。

運「覚えてません?」
私「ごめんなさい、覚えていないです」
運「○○が××して・・・って話をしたんですけどね。
  たしか、伊丹空港まで乗ってくださったはず」

あ、たしかにその話した覚えはある。伊丹までタクシーで行くのも稀だから、覚えてる。でも、かれこれ5、6年前のことだ。

運「自分その頃、タクシーの運転手になったばっかりで。
  だから、すごく印象に残ってたんです」
私「そうなんですか。奇遇ですね」
運「そうですね。
  流してて同じお客さんを乗せたのは、
  これが初めてですよ」

しばし、社内にFMラジオの音楽だけが流れる。
と、ぽつりと彼が言った。

「私、今日でこの仕事辞めるんです」

意外な一言に、何と答えていいかわからなくなった。
腰と腎臓が悪くて、長時間の運転は辛いらしい。
タクシードライバーを辞めて、その先どうするのかは訊かなかった。

目的地について支払いを済ませた。きっと、彼にはこの先、二度と会うことはないだろう。何か特別なことを言わなくてはいけないような気がしたが、気の利いた言葉は浮かんでこなかった。
「ありがとう。次の仕事も、がんばって」と言うと、

「お客さんも身体には気を付けて。
 がんばってくださいね」

振り返ってこちらを見た彼の顔は、晴れ晴れとした少年のような笑顔だった。

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