無題
荻野目裕生(オギノメユウセイ)は吸血鬼だ。
青白い肌と鋭い八重歯の特徴から、古くから人々の間に伝わる不老不死の化け物になぞらえて、誰かがふざけて荻野目をそう呼んでいた。
事実、荻野目は、その呼称に納得していた。
ーそうか、僕は人間じゃなかったんだ。
化け物、気狂い、犯罪者、人でなし。十人に尋ねたら十人が荻野目を指さし、蔑み拒むのだ。
荻野目は本当に人間ではないのか?荻野目以外の“人間”はそうだと答える。人間が人間でないと思うものは―異物に他ならない。それは機械、それは宇宙、それは猿。姿かたちや生態が同じならば同質として受け入れられるかというとそうではないことが、歴史で証明されている。人間は、年齢や性別や肌の色や宗教が違うだけでも、どこまでも残酷になれる。砂山に立てた棒倒しのように、“自分こそが絶対に正しい”と、自分以外の要素を排他してようやく、アイデンティティという柱が独立するからだ。
だから荻野目は死んで試すことにした。荻野目はこれから死ぬのだ。死んで物語になる。誰かの思い出のなかだけの登場“人”物になる。死ぬときになってようやく荻野目の命は形になる。
“酔っぱらって公園のベンチで自ら凍死するなんてことは、人間にしかできない死に方”だからだ。
それは荻野目が、ここ何日かのボンヤリした頭で調べてたどり着いた、最も楽な自殺の方法だった。
荻野目の暮らす日本には、現状、安楽死というものはない。
よって自殺志願者が選択できるのは、身投げ、首吊り、飛び降り、薬物、練炭etc。わざわざ包丁を腹に突き立てて死のうと思う人は、荻野目を含めて、ほとんどいない。
例に挙げたものはどれも遺体は目も当てられないものになるし(首吊りや入水は有名なところだ)、電車に至っては遺族に賠償が求められる。荻野目の良心には何の呵責もないが、あまりに影響が大きかったり、死んだ後まで何かに取り沙汰されるのは、荻野目の望む結末とは違う。一時期に、集団自殺や自殺控除という名目での殺人事件なども報道されたが、荻野目はやはり独りで死にたかった。
なにより、実は、どれも成功率が割合低く、生き残ってしまった場合の後遺症も悲惨だ。病院のベッドに寝かされてしまえば、今度はそれこそ、死ぬまで自分で死ねないのだ。喋ることも考えることも動くこともままならず、今まで荻野目をゴミのように扱ってきた人間が、善性を振りまいて、荻野目を自己肯定のための感情の道具にするのだ。そんなのは耐えられない。
いっぽう寝ゲロによる呼吸困難や急性アルコール中毒ならば、後遺症の心配はさほどない。むしろ脳機能障害で人格が変わったり障碍者として明確に支援される立場になれば、今より生きやすくなるかもしれなかった。
荻野目はいささか酔うのに時間がかかる体質だが、まあ―最悪、金のことなど気にしなくていい。居酒屋なら初対面でも荻野目を気に入って奢ってくれる人もいるだろうし、どうせその後すぐに死ぬなら、無銭飲食で警察に追われたって、関係ない。店の人には申し訳ないだろうか。荻野目にかかっている保険金で、賠償くらいはできるだろう。
荻野目のすべては、死ぬことと、死んだあとに向かっていた。RPGで言えば死ぬのがトゥルーエンド、刑務所がグッドエンド、生きるのがバッドエンドだ。誰かが荻野目を優しく抱きしめて人間だと教えてくれるストーリーは、用意されていない。
いつものように地元を出発して、横浜線の菊名駅で東急東横線に乗り換え、中目黒で更に乗り換えて恵比寿に向かおうとして―水色の。緑だったか。そんな風な電車に、突然駆けこんだ。今日この瞬間まで、荻野目は死ぬ気は無かったにも関わらず、ふと、今夜の献立でも思いついたかのように勘が閃き、迷わず知らない車両の席に着いた。
Slipnotとギターウルフのアルバムを交互に聞きながら、荻野目は乗車時間を凌いでいた。
荻野目は生まれつき、音はより大きく聞こえるし、匂いや味はより強く感じるし、光や色はより眩しく見えて、温度やモノに触れたときはより直接的に感じた。いわゆる感覚過敏というヤツで、荻野目にとってのこの世界というのは、何もかもスケールが大きい巨人たちの国のように思えるのだ。この巨人の国から逃げ出す手段として、荻野目は、外出するときは必ずヘッドフォンで音を遮り、ガムを噛んで匂いを誤魔化し、身体をぎゅっと縮めて強張らせ、誰にも触れられないようにしている。こんな世界で平然と暮らせる“人間”のほうが、荻野目にとっては恐ろしかった。そしてそのことを伝えると―荻野目は強く批判されてきた。
「世界がそんなに恐ろしい筈がない」「そんなふうに感じるなんて頭がおかしい」、実の両親にさえ、幼少の頃から「おかしなことを言って気を引こうとしている」「私達の子供に知的障害があるなんて有り得ない」と罵られた。(ちなみにここで言う知的障害、それでもってそれが悪、というのは、荻野目の両親による独善的な思い込みだ。)
正直に、自分の人生を振り返ったとき、荻野目は、心底辛くなった。過呼吸を起こし、手足が痺れ、毎朝悪夢に魘されて、ベッドから起き上がり立って歩くのすら困難になった。自分の人生は、耐え忍ぶだけの価値がなかった。否、死こそが救済ですらあった。単純な計算式を描くと、至極明快だった。「また寝不足と喘息か?」と鬱陶しそうに声をかけてくる父親の横目が答えだ。荻野目は、今まで、喘息になったことなどない。
荻野目には、毎日飯を食い眠る家と、心を許せる姉と、愛する友人と、焦がれる恋人がいた。趣味も夢も才能もあり五体も満足で金に困らず、自分はすごく恵まれた―化け物だと自覚している。これだけで、世界規模で見れば相当な贅沢だ。周囲を見たって、これだけ揃っている人間はあまり居ないかもしれなかった。
ただそれ以上に、荻野目は、毎日が、酸欠のようだった。無理やりに頭部を押さえつけられ、ドブが波打つ桶で呼吸をしろと言われているようだった。
愛するものたちもまた、荻野目にとっては“人間”だ。荻野目がすべてを受け入れて手を差し延べても、その手を握り返してくれる者はいない。荻野目よりも大切な“人間”が在るからだ。荻野目はしょせん怪物なので、彼らの秩序が支配する世界には、入っていくことができなかった。そのことに悲しんだりもしたが、それすらも受け入れた。恐らく、そこで抗い苦しまないのも、荻野目が非人間たる所以だった。
向かいの席の窓に広がる夜景は、荻野目には宇宙のように映る。火星の内臓に爆竹を詰めてぶちまけて、そこに金ぴかの住人が卵を産みつけている様子だ。ヘッドフォン越しのアナウンスは乱反響し、風と滑車の駆動音で掻き消されて理解できない。木枯らしが運ぶ人々の靴や皮膚の強烈な獣臭さに胃がひっくり返されそうになり、席の隣ではしゃぎ倒す女子高生の腕が自分の肩にぶつかるたび、 その体温に酷く怯えた。目の前にいる人間に血が通っているという現実が、途方もなくグロテスクだった。荻野目が不快に思うことを何とも思わない人間がひしめき合っているのが、違和感という海の大渦に飲み込まれていく錯覚を覚えた
。
― やはり、死ぬべきだな。
どこへ行っても荻野目は、この自分と世界を隔てる決定的な異物感によって、何度も情緒的に殺されてきた。日常生活すらままならず、恐らく今後一生改善されないのだ。今でも逃げ出したいのに、あと六十年ばかり我慢しなければならないのかと思うと、その時の自分の精神状態を想像するのが恐ろしかった。
人間が幸せになるために生まれるというのなら、荻野目は人ではない。人間が最初から愛を必要とせず、強烈な五感を持ち共存・同化を嫌う異様な生態をしていたのならば、その定義ならば、荻野目は人間にカウントされただろう。
一種の強迫で、荻野目を狭い視野で仄暗い陶酔に取り憑かれた現代的な若者の典型だと一笑に付すことはできる。だが荻野目を嘲笑う人間の誰もが、荻野目を救わなかった。
どこかもわからぬ終点に辿り着いた。辿り着いては向こうのホームへ、また終点に着いては別のホームへ、とにかくまだ目にしていない車両をチョッキ姿の白ウサギに見立てて迷路の中をぐるぐる追い続け、とうとう、ある駅でICカードの残額が尽きた。
荻野目は諦めて、その寂れた改札口を通り、久しぶりに電車以外の景色を見た。
馴染みのない待合室のような場所を出るなり、皮膚を破くような寒さが襲った。これはちょうどいい。腕時計を確認すると、これからまだまだ冷え込みそうな時刻であった。
荻野目はひとまず。寂れた駅から少し歩いた場所に門を構える、昔ながらの居酒屋に足を運んだ。赤い提灯と中から聞こえる複数人の男性の愉しげな声から察するに、地域密着型、お客は近所の人しか居ないと見た。
「おお、いらっしゃい」
「どうも」
「あれ、お兄さん、この辺の人?」
「いえ。…ええと、出張で」
こう言えば深くは詮索されない。
「そっかそっか。寒かったでしょ~!今おじさん達で飲んでんのよ、うるさかったらごめんねぇ!」
「大丈夫です」
「とりあえずビール?」
「いえ、あの、熱燗で」
「お、いきなりいくね~!はい、じゃちょっと待っててね。これ、お通しの塩キャベツ。おかわり無料ね」
この飲み屋特有の雰囲気は、荻野目にとって世界でも数少ない好きな空間だった。みんなが笑顔で飯を食い酒を飲み、友人や見知らぬ隣人とさえ、肩を組んで面白おかしく身の上話をする。大体みんな酔っているので、大事な話もそうでない話も、戦場で交錯する矢のように、あられもない方向へ飛んで行って、放置される。それがたまらなく自然体で、そんな瞬間だけは、人間が愛おしかった。
「お兄ちゃん、強いの?ちょっとこっち来なよ」
「それがいい」
「オッサンたちとじゃ嫌でしょ~!」
「とんでもない」
赤ら顔のサラリーマン達に誘われて、奥の座敷席に上がった。
「兄ちゃん、最初入ってきたとき女かと思ったよ。歳、いくつ?」
「二十五です」
これも嘘だった。
「仕事で来てんの?どこから?」
「神奈川です」
「神奈川。横浜の?」
「はい、横浜の」
「へー!ここまで遠かったろ~。あそこの駅も寒いしさぁ、っとロクな町じゃねえよ」
「ロクでもねえ町で育ったのがオメエだよ!」
「へへへ、俺たち、腐れ縁でさ、もう三十年よ」
地元の幼馴染だというサラリーマンの男性三人と、乾杯をした。
甘く米臭い日本酒は、食道を刺すように通過していった。失敗だ、これは悪酔いしそうだった。荻野目は酒そのものの味はどうでもいい。ただ酔って、感覚が鈍磨していくのを楽しむ手段のひとつとして捉えている。なので、ビールでもウイスキーでも日本酒でもテキーラでも、一度スイッチが入れば水のように飲めた。
「名前は?」
「裕生」
「裕生。いいねえ~」
「ふふっ。なにがいいんですか」
「いや、その見た目で裕生なのがいいよね」
「あっはは。おじさんだって貫禄あるじゃないですか」
「あれっ。もう飲んじゃったの?次も熱燗?」
「あ、じゃあ、麦のソーダ割りで…」
それから店が閉まるまで、荻野目は飲み続けた。先客の男性たちが荻野目よりも早く店を出るときに、楽しい会話のお礼にと会計をまるまる肩代わりしてくれて、ついでにその後に飲む分も自分たちにツケてくれるよう、店主に取り計らってくれた。
深夜に放り出された見知らぬ町は、ひどく静かだった。
真横でインド象が歩いているかのような三半規管のいかれっぷりで、何度か道端に嘔吐を繰り返しながら、荻野目はそれでもブルースなんかを唄って、公園を探してふらふら徘徊した。今ここで眠っていいよと言われたら即座に仰向けに倒れられるくらい、爪先までパンパンにアルコールが回っていた。唾液を飲んでも飲んでも、糞のような甘さが喉に張り付いていた。荻野目はいつも飲酒をすると手足や口元が痺れ、脈も乱れ、まさに虫の息になるのだが、それすら可笑しかった。
おかしくておかしくて―頬が引き攣るくらいに笑って、見つけた覚えのない公園のベンチにどっかりと横たわった。
服はタバコ臭いし、お気に入りのブーツも自分の胃液で汚れていた。いつの間にか持たされていたビニール袋とティッシュをクズ籠目がけて投擲する。
「あっはっは。入らねえ」
発した声も、しわがれたウシガエルの鳴き声のように潰れていて、この世界でいま自分が一番酔っぱらっていると叫んでやりたくなった。
「よいしょ、っと…」
自室のベッドでそうするように、右を向いて、足を畳んで縮こまった。左手は口元で、右腕は足の間に挟む。ベッドという唯一のテリトリーで、荻野目はそうして眠るのが習慣だった。
体勢を変えたことで、体の中心が素っ頓狂な音を上げた。横になったところで重力はおかしいままで、胃の不快感は拭えなかったが、それでも、荻野目は満たされていた。もう二度と、この世界で目覚めなくて良いのだ。早朝の小鳥やエンジン音、隣室のボイラー、通電音、モスキート音、目を開けられないほどの日差し、甘ったるいトーストの匂い、暑さも、寒さも、何一つ感じなくて済む。感じなくて幸せだ、と思う心さえ無くなるのだ。
鼻から酸素を取り入れた瞬間、上瞼の裏を通って心地のよい睡魔がこちらを誘う気配がして、荻野目はゆっくりと瞳を閉じた。
荻野目ははじめ、夢を見た。荻野目は夢の中でだけ、五感の鈍い“人間”になれた。
最後の夢で荻野目は、狼だった。
銀色の太陽が光を伸ばす荒れた野を駆ける紅い体毛の狼で、群れから進んで逸れ、気ままに旅をしていた。もとより群れなどなく、この荒野で、狼は荻野目だけだったのだ。
「あなたはいつもそうやって、逃げるのよ」
母親の上半身が寄生した仙人掌が生えていた。
「夢を叶えても変わりやしない」
高校の頃の担任が、四肢の雨となって荻野目の頭に降り注いだ。
「殺してやる」
中学の頃の友人が、蠍の甲殻で出来た水着を着て笑っていた。
「お前は育ちが悪い」
「お前は子供だ」
小学生の頃通っていたピアノ教室の先生や、専門学校の講師たちの全身骨格が描かれた絵画が地面に散乱していて、そのかたわらの蓄音機から、延々罵声が流れていた。
「お前は役立たずだ」
スプリンクラーで除草剤を撒く麦わら帽子の男を、なぜだか父親だと認識できた。
―ああ、やめてくれ。この大地はもともと瑠璃で出来た、たいそう美しい場所だったのに。
どこを削っても青く輝く宝石と、それから荻野目の大好きな紅茶のクッキーが出てくる、狼だけの国だったのだ。
荻野目は怒りに任せて、それらの邪魔者を全てを噛み千切った。仙人掌からは血が噴き出し、雨はもっとバラバラになって、蠍は蛆虫に集られ、絵画は断末魔を上げ、父親の腹からは赤ん坊の死体が飛び出した。
荻野目は旅を続けた。
歩いて歩いて、あるとき、蓮の花をいっぱいに背負った、ひとつの山ほどの大きさの真っ黒な虎が、オアシスに浮かぶ船に乗って待っていた。
「まだいたの」
遥か頭上で、老婆とも幼女ともつかぬ虎の深い声が響いた。
虎はゆっくりと屈み、その相貌に紅い狼を映した。
荻野目は虎の鼻を嗅いで挨拶をすると、天鵞絨のような虎の身体をよじ登った。
「血生臭いわ」
「ごめんなさい」
「本当に下品で、下劣」
「ごめんなさい」
泣きながら、それでも虎の声から逃れようとしなかった。
「お前は救われないよ」
「それでもいい」
「お前は昔からそうだ。甘えているのよ」
「うん。僕は甘ったれのクソ野郎だ」
「先に行くのね。止めないわ」
「ありがとう」
荻野目が毛の逆立ちを撫ぜると、虎はそれきり喋らなかった。
蓮の花弁が近づいていた。
荻野目は大きな虎の背中に寝転がり、しばらくその温もりを確かめた。
「ここに居たのが姉ちゃんで良かった」
空を仰ぐと、雲間から青い制服の男が荻野目を覗いていた。
荻野目の胸には、確かな幸福感があった。これでもう瑠璃の大地は荒らされない。これでもう世界に狼は一匹だけじゃなくなる。だってゼロになるんだから。何も残らず、ただ、狼が愛した紅茶のクッキーだけが、いつまでも香しく眠っているのだ。
天と地に向けて、荻野目は不敵に笑って、こう言った。
「あばよ。」。
去年か一昨年に書いてどっかに応募した完全限界短編小説です。とりあえずの保管。
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