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TANZ says “This is dance” ─綺麗にパッケージされた「不快」

秋山きらら

この文章は、2022年10月1日(土)・2日(日)にロームシアター京都サウスホールにて上演されたフロレンティナ・ホルツィンガーによる『TANZ(タンツ)』についてのレビューです。

▼プログラム詳細
https://kyoto-ex.jp/shows/2022_florentina_holzinger/

フロレンティナ・ホルツィンガーによる『TANZ(タンツ)』は、これこそがダンスであるとでも言うように、ダンスを取り巻く様々な構造、印象、特徴を剥き出しにし、時に真逆のことをすることで強く観客に印象付ける作品である。そのためにホルツィンガーは、ロマンティックバレエの形式を乗っ取り、アクロバティックなワイヤーアクションや、不揃いな女性の裸体の露出、放尿、破壊といったイメージを次々に、そして丁寧に積層させる。そしてそのミルフィーユを、極めて現代的で洗練されたセノグラフィーやビジュアルイメージとともに、劇場という場で、コンテキストへの理解ある鑑賞者にまなざされ、綺麗にパッケージされることで完成している作品でもある。 

 全裸のレッスンからはじまる第一幕

ホルツィンガーが自ら言及するようにロマンティックバレエの形式である二幕構成の第一幕は、バレエのレッスン風景から始まる。幕開きから裸で中央に立つ初老のバレエ講師は、「I am going to teach you how to govern your body」と言ってレッスンを始め、ごくありふれたバレエのレッスン風景と同じく進行していく。18世紀後半にフランスでほぼ現在の形に完成したバレエは、20世紀には日本を含め世界各地のダンスの共通言語となってきた。その、精神と身体をまさに権威的にコントロールする美しいダンスの技術を指導。このシーンは、『春の祭典』を世界ではじめて裸で踊ったベアトリス・シェーンヘルのバレエ教室の引用だと言及されている。その後も女性ダンサーたちは講師の言葉に素直に従い、纏うものが一切なくなるまで服を脱ぎ、四つん這いになり膣を批評され、言及される自慰行為の方法を疑いもなく実行する。それはまるで、外部から遮断されたダンススタジオという空間、権威的な講師と生徒との関係性、精神と身体を完全に意識の統治下に入れる訓練という要素を余すことなく再提示していた。

 

目を塞ぐほどの激しさを増す第二幕

突如として始まり本編から切り離された幕間のマイクパフォーマンスを挟み、徐々に第二幕に移行していく。段階的に観客がその感覚を慣らされていった一幕を終え、二幕は加速度的に激しさを増して展開。空飛ぶバイクに跨る空中パフォーマンス、髪の毛のみで吊られる身体、マジックショー、その裏でひっそりと遂行される放尿。血糊まみれの股の間からネズミが産まれ、直接的に擬態した狼と魔女のやりとり、次第にバイクが轟音を鳴らし銃撃音がやまないシーンへ。パフォーマーは入れ替わりワイヤーを巧みに操り、操られ、壁にぶつかり、宙を舞い、一度クライマックスを迎える。しかしこれは序章にすぎず、舞台の奥で進められていた施術台での出来事が次第に全体を包んでいく。

金属の太いフックが、一人のパフォーマーの背中の肉にゆっくりと突き通される。血を流しながら中央に出てきた彼女の背のフックに、天井から降りてきたワイヤーがかけられる。この時点で小さな悲鳴を漏らした観客がいたことが、自己と一体化してしまった舞台での出来事を一度切り離して俯瞰することに大いに役に立ったが、その時、緊張感と嫌悪感と一際強い視線が彼女の背中一点に集まっていた。始めは痛みに耐えて慎重に宙に釣られたかのように見えた彼女は、若干の赤い血を垂れ流しながら、次の瞬間には怖いほどの笑みたたえ宙に浮いた。バレエが目指していた妖精のように天を目指す身体運動を、超能力的に手に入れた彼女は、その体重によって伸びきっている背中の皮膚の心配をよそに、空中パフォーマンスを繰り広げる。 

そして終盤のシーンとしての「come sweet death」。恐怖の表情を捉えるカメラ。甘美な合唱を交え、繰り返される死の瞬間。2時間にわたる上演のエピローグには、雑然とした舞台がもう一度明るく照らされ、平然と最初のレッスン風景に戻る、かのように見えた。しかし、どうしても大量の血糊と散乱した小道具が邪魔し、プリセット位置につけない。言われた通りにできない生徒たちの様子に、図らずもバレエ講師をはじめ、会場全体が笑ってしまうような雰囲気の中、幕が降りる。

 

終演後に身体に残るうんざりする感覚

観劇直後、うんざりするような疲れた自分の身体に気付き、いつまでも衝撃が残った。『TANZ』は隠され、まなざされてきた女性の身体をさらけだし、身体だけでなく全ての行為を舞台の上でオープンにし、過激なアクションを積み重ねることで、果たしてダンスを表象できたのだろうか。

これが見世物小屋でのショーではなく、「ダンス作品」として成立していることの要素の一つに、劇場で上演していることが挙げられる。洗練とは真逆のチープで粗雑な素材や演出、見るに耐えないものを見せていく手法を、ニコラ・クネジェヴィッチによる現代的な舞台セットでパッケージ。それをまなざす観客もまた、劇場に集う「理解のある」人たちばかりで、その人たちに向けて丁寧に順を追って説明しているのだ。これが見世物小屋でのショーであった場合、観客は知的な眼鏡すら掛ける必要もなく、舞台とほぼ一体化した視点で、ある種目を背けたくなる不快なものを、そのものとして楽しんでいたはずである。

幕が降り、観劇の一体感のまま拍手喝采が起きる情景に、私はどうしても気持ち悪さが拭えなかった。一種の不快感をもたらす表現を、綺麗に楽しめるように周到に準備し積み重ね、舞台側と観客が同じ空間と感覚をこれほどまでに共有し、包み整えたことは賞賛に値する。しかしこの気持ち悪さは、作品の意図とは逆に、不快で鈍化したイメージの積層が終焉直前には既に純化して記憶されてしまったからではないかと考える。「でも、やっぱり、女の人の身体はやはり美しかった」という感覚や「綺麗な、良いものを見た」という感情が終演後に少なからず湧いてしまった。本当はそうではなかったはずなのに。そして、上演中の時間の経過のみならず、再演を重ねより時間が経過すると、純化され洗練されていくことは免れ得ないのではないだろうか。多くの引用、問題提起を孕む本作であるが、このことから考えるに作品の賞味期限がとても短い可能性がある。作品が提示する問題提起が、その過激さの影に隠れて問題にされないのは、あまりにかわいそうだ。


幕切の笑いが示す救い

一方で注目したいシーンがある。それは、最初のレッスン風景に戻ろうとして戻れなかった、幕切直前のシーンだ。このことが示しているものは何であろうか。緊張感のあるシーンの全ての後に、既に知っている冒頭のシーンが繰り返され思い出された安心感で、緊張感が一気に緩み、舞台上の出演者も観客も笑ってしまった。それもとても自然に。この笑いは、劇場というその場限りのコミュニティーの中で、唯一、形骸化した様式美や、権威から本当に逃れた裂け目だったのではないだろうか。魔法がかかってしまう、夢の場所としての劇場に、救いのある現実が顔を出した瞬間だったのではないだろうか。私はここに、この作品の一番のクライマックスを見出さずにはいられない。

 

最初の問いに立ち戻る

『TANZ』は、ダンスを表象できたのだろうか。ホルツィンガーは、バレエテクニックをはじめ、放尿や嘔吐、ワイヤーアクション、マジックショー、ライブビデオでの撮影、その他さまざまな行為を観客の前でさらけ出せる覚悟という点において平等なものとして、舞台上に並べる。しかしそれを全て見させられる必要はあったのだろうか。目の前で起こる様々な出来事を凝視し、受け止めざるを得ない劇場という状況下で、観客に対してこれほど暴力的に振る舞う作品も最近では珍しい。 

自らの節度と美意識を持って、自動的で習慣的に拍手をしようとする手を止めて、受け止め方を委ねられたことはないと感じた。私は、あなたは、この体験をどのように感じているのか。我々は、19世紀にモネが発表した『草上の昼食』の焼き増しをやっているだけではなかろうか。これは、美の更新なのであろうか。「不快だった」という言葉は評価なのであろうか。なぜ客席が熱気に包まれたのか。私たちは何に対して拍手をしたのだろうか。

この作品は、観客に「本気で向き合え」と挑発してくる。

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