好きなことについて語るときに私が語ること

ある休日、近所を歩いているとランニングをする人の姿が目に入った。もう久しく走っていない、私も走らなければ、という思いとともに激しく湧いてきた感情を極限までシンプルに表現するのであれば、これしかない。

ああ、私の好きになった陸上選手は何て強く美しく走るのだろう

「走る」という行為は、人間が言語よりも早く身につけ、歩き始めた子どもが特に教えられるでもなくその動きができてしまう、人間にとって基本的な動作だ。しかし、才能や努力等、様々なものによって磨き上げられた彼らの走りは何と美しく、輝いて見えるのか。その姿を好きになって勝手に応援しているだけの私まで、なぜか誇らしく思ってしまうほどだ。

やっぱり私は陸上選手が好きだ

ここまで考えて、ふと我に返る。

私が言っている「陸上選手」とはいったい誰なのか

私が応援している選手なのか、私が知っている選手なのか、勉強不足で顔と名前を一致させられないけど全国レベルで活躍している選手なのか、名前も分からないけれど日々練習を積み重ねている選手なのか、何で陸上やってるんだろうと思いながら走っている選手なのか…。

私は陸上選手が好きだと言っていいのだろうか

考え続けて分からなくなった。

それなら「陸上競技が好き」というのはどうだろう、と思い付くもこれも同じ道をたどる。

駅伝は好き。マラソンもハーフマラソンも好き。10000mも5000mも3000mSCも好き。1500mも好きだけど、800mは特に好き。400mや400mHは意味が分からないけど好きだし、200mはコーナーが好き。走幅跳の助走前にくいっと背中を反らせる仕草も好きで、一瞬でテンションを上げるなら走高跳の動画を見るくらい走高跳も好き。

でも、100mは?人間じゃねえ…とは思うけど、好きかと言えば「うーん…」が答えだ。投擲は恥ずかしながら、まだちゃんと見たことがない気さえする。陸上競技を好きと言っていいのか、さっぱり自信がなくなった。

話は少し逸れるが、私は速さだけに価値を見出す意味での「シリアスランナー」という言葉が好きじゃない。私は陸上競技経験者でもなければ、運動神経がいいわけでもないので、1km3分切りで走るなんてまず想像がつかない。自転車に乗ったって、そのペースについて行けるのか、ちょっと自信がないくらいだ。だから、1km3分切りで走れる人は本当にすごいと思うし、敬意を抱いている。

一方で「シリアスランナー」と聞くと、「風が強く吹いている」のハイジのこの言葉を思い出す。

「いいかげんに目を覚ませ!王子が、みんなが、精一杯努力していることをなぜきみは認めようとしない!彼らの真摯な走りを、なぜ否定する!きみよりタイムが遅いからか。きみの価値基準はスピードだけなのか。だったら走る意味はない。新幹線に乗れ!そのほうが速いぞ!」(「風が強く吹いている」文庫版 p.200)

この言葉が私の中に根付きすぎているため、持ちタイムだけで「シリアス」かどうかを判断するのを是とするかといえば、それは明らかに否である。高いレベルで競技と向き合っている人から見れば評価に値しないタイムで走る人にも、シリアスな理由で走る人だっているんじゃないか、そう思ってしまうのだ。健康目的やダイエット目的で走る人だって、シリアスに走っている人はいるだろうし、新型コロナウイルスの影響で大会が中止/延期になって心を痛めている人だって、それだけ走ることを大事に思っているシリアスランナーと考えていいのではないだろうか。

結局のところ、私が好きな「陸上選手」「陸上競技」は、私が好きじゃない、速さという観点のみの「シリアスランナー」に限るのではないか。好きじゃない定義で括った「陸上選手」「陸上競技」を果たして好きと言ってよいのか。

好きなことについて「これが好き」と言いたいだけなのに、本当に好きなことと自分の価値観を突き詰めていくと何を好きと言っていいか分からなくなる。

どこまでいっても揺るがないのは、

ああ、私の好きになった陸上選手は何て強く美しく走るのだろう

この言葉が思い浮かんだとともに想起された陸上選手の走り方が、私はとても好きだ、この思いだけなのかもしれない。

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